熱の伝達経路

 あの頃に見た空も、こんな色をしていただろうか。

 ビュウ、と音を立てた風が、屋上の冷たいコンクリートの上を滑るように吹き抜けていく。散り散りに乱れた前髪を億劫そうに掻き上げ、上向いていた顎をふいと引き戻した城之内は、飴色の目をゆるく眇めながらふうっと長い息を漏らした。
 視線の先には赤く灯る煙草の火。風に散らされて花冷えの空気を汚していく紫煙は、随分長いことご無沙汰だったにも拘らず、妙にしっくりと鼻先に馴染んだ。指を口元に運ぶ仕草も堂に入っている。
 深く吸い込んだ煙をゆっくりと肺の奥に巡らせ、噎せることなく一息に吐ききる。脳に到達したニコチンが毛細血管をキュッと引き締める、久方ぶりの感覚。
 高校入学と同時に喫煙の習慣を改めたのは、何も健康に気を遣ってのことではない。無論今更年齢を気にしたわけでもなく、ただ単に、金が無かったからだ。
 喧嘩相手から巻き上げるという手段を除けば、嗜好品に割く金は自腹以外に有り得ない。だが、「手放せねぇだろ、こればっかりは」と顰めっ面を見せていた男ほど中毒症状のなかった城之内は、意外にもすんなりとそれを手放すことが出来ていた。
 思うよりずっと簡単だったのだ。抜け出すことは。
 ……少なくとも今日まで、彼はそう思っていた。

「煙い」

 錆びかけたフェンスに背を凭せ、欠伸を噛み殺すように再び空を仰いだ彼の隣で、如何にも不機嫌そうな声が上がる。
 煙草を挟んだままの指先を膝に置いてちらりと目を向けると、胡坐の上にノートパソコンを置いた男が絵に描いたような渋面でこちらを見ていた。眇められた青い瞳、その鋭い視線が、いっそ清々しいほど無遠慮に頬を突き刺してくる。
 まったく。
 城之内は軽く目を伏せ、些かわざとらしい溜息を吐いた。
「嫌ならどっか行きゃいいだろ。テメェに指図される謂れはねェよ」
「指図ではない。ただの感想だ」
「そういうのを屁理屈って言うんだぜ。後から来といて文句言われたって、なぁ?」
 煙草を持つ手をひらりと振りながら口の端を吊り上げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべてみせる。
 場所取りは早い者勝ちだ。階下から吹き上げる風が心地好いフェンス際、腰掛けるには最適な段差、この時間帯だけその方向に伸びる給水塔の影。
 城之内が今現在座っているのは、まさにその特等席だ。半ば意地のように隣に腰を下ろしてきた海馬の肩は、日陰から少しはみ出している。
 ざまァみろ、とまでは思わないが、いい気分だ。内容はどうあれ、この男を出し抜けることなどそうはない。
 猫のようにゆるく目を細め、城之内は灰皿代わりの空き缶の上でとんとん、と煙草の灰を落とした。
 再び口元へと近付いていくその手を、海馬の目が追いかける。物珍しげ、という風ではない。当然だ。彼の周りにも煙草を吸う大人など山のようにいるだろう。
 習慣的に吸っていたかどうかなど知る由もない彼が、元ヤンと名高い自分の喫煙姿を今更意外に思うとも思えず。
 ならば何故。
「……手、止まってるぜ」
 口唇に触れる人差し指と中指。フィルターを咥えるまでの一連の動作を無心に見つめてくる瞳に、城之内は些か居心地の悪さを覚えながら顎をしゃくった。
 先刻まで気にならなかった煙の苦さが舌に纏わりつく。普段は腹立たしいほど綺麗にこちらの存在を無視してくれるくせに、今日は一体何を考えているのか。
 ふうっと吐き出した煙が彼とは反対の方向へ流れていく。風向きはてんでバラバラだ。次はその顔に掛からないとも限らない。気を遣ってやるつもりなど毛頭なく、その義理もないが、ネチネチと文句を言われるのは御免こうむりたい。
「あぁ、テメェも吸いたかったとか?」
 いい加減どっか行ってくんねェかなぁ、と空を仰ぎつつ、漸く思い当たった理由を口に出せば、「煙いと文句をたれる人間が自ら吸うと思うのか」と小馬鹿にしたように目を眇められた。
 じゃぁ何だよ、何でそんなにマジマジと見つめてくれてんだよ。
 城之内は煙草を口の端に咥え直し、口唇をへの字に引き結んだ。
 もしかして単に、揶揄われているのだろうか。
「人が煙草を吸う理由には諸説あるが」
 ニヤリともニコリともせずに海馬が言う。
「最も多いのはストレスの発散や欲求不満の解消。或いは口寂しさからくる単なる癖。中毒症状。そして、集団への帰属意識」
「は…?」
 城之内は怪訝な顔で首を傾げた。
「何だよその、"きぞくいしき" ってのは」
「組織に属し、その一員らしく振舞おうとすること、だ。不良グループに属しているような人間は特にこの意識が強い。煙草や酒などの違法行為を集団で行うことで連帯感を高め、裏切りを抑制する」
 つらつらと、まるで書物でも読み上げているかのように抑揚なく響く低い声音に、城之内の眉間の皺は益々深くなる。
 声だけではない。何を考えているのか解らない、掴みどころのない海馬の表情は、彼の機嫌を垂直に近い角度で急降下させていた。
 言いたいことがあるならハッキリキッパリ言えばいい。遠回しな物言いなど、全く以てこの男らしくない。
「いちいち小難しい言い方してんなよ。要するにあれだろ? 昔を懐かしんでるように見えたってことだろ」
 ハ、と短く息を切るように笑い、城之内は嫌味たらしく口の端を吊り上げた。
 フェンスの向こうで唸りを上げる風。肩越しに吹き抜けたそれが二人の髪をなぶるようにはためかせる。
 普段は見ることのない海馬の白い額と、前髪の影に邪魔されることのない透き通った青色に、思わず息を呑んだ。
 存外に年相応の顔をしている、と思う。この男に限ってそんなことがある筈もないのに、酒の甘さも煙草の苦さも知らない子供を前にしているような錯覚に陥った。
 そんな目で見ないで欲しい。嫌なものをただ嫌だと口にする子供の純粋さを卑屈にしか捉えられない大人のように、居た堪れない気分になる。
 煙の味ばかりではない苦さがじわりと胸の内に広がり、城之内は短くなった煙草を苛立たしげに缶の縁で揉み消した。
 他意のない言葉の裏に軽蔑染みた色を勝手に見出してしまうのは、心に疚しさがあるからだ。
 これが正しい行為ではないと知っている。常識としての正しさではなく、手段としてさえも間違っているのだと。
「俺の知る限り、貴様が煙草の臭いをさせていたことは一度もない。ならば喫煙に対する欲求と衝動は一過性のものだろう。例えば、街中で偶然昔の仲間に会った―――」
 こちらの気も知らず、海馬は相変わらずの分析口調だ。どうだ、と正解を問うてくる視線に、城之内は小さく肩を竦めることで応えた。
 あながちハズレでもない。
「大した観察眼をお持ちで。テメェがそこまで俺のことを気に掛けてくれてるなんて思ってもみなかったぜ」
 揶揄い半分嫌味半分に告げてやると、彼自身思い掛けないことだったのか、僅かに眉根を寄せてついと顎に手を当てている。
「まぁ、実際に会ったわけじゃねェし、そんな複雑なモンでもねーけどな。テメェが言ったどれかに無理やり当て嵌めるなら……そうだな。ストレスの発散、ってのが一番近い」
 夢を見たんだ。
 言って、城之内は軽い苦笑いと共に新しい煙草を指に挟んだ。
 校舎裏にたむろして火を貸し合い、冷めた顔で小さな罪を味わっていた頃の夢。
 その夢を振り切る為に、煙草を吸った。
 矛盾していると解っていながら、胸にくるタールの重さと、明らかに害と知れる血管の収縮に安堵する。抜け出せない。思い知らされる。

『手放せねぇだろ、こればっかりは』

「煙い」
 先刻より更に険しい面持ちで、海馬がぼやいた。
「テメェなぁ…」
「嫌々吸うくらいなら捨ててしまえ」
 どっか行けよ、と呆れ声を投げるより早く、言い切られる。
「……何だって?」
「喫煙者の大半は、そうすることが必要だ、と思い込んでいるだけだ。今の貴様に本当にそれが必要なのかどうか、良く考えろ」
 目を丸くして動きを止めた城之内の指先から、ほろりと灰が崩れ落ちる。
 海馬の言葉に迷いはない。決して好き好んで吸っていたわけではないことを、完璧に見抜かれている。
 どうして。
「テメェ、さ」
 何とか動揺の波を乗りきった城之内は、渇いた喉から絞り出すように声を漏らした。
 ごく近い距離で見つめ合っている今の状況が急に気恥ずかしく思えてきて、煙草を挟んだままの指でぽりぽりと頬を掻く。
 一体いつから、どれだけ自分のことを見ていたのだろう。無自覚であるからこそ性質が悪い。
「何だ」
「いや、何つーか……」
 視線を明後日の方向に逃がしながら呟くと、あからさまに気分を害した風な気配が伝わってきた。チクチクと頬を突き刺す視線。それに覚える、捻くれた優越感。
 ―――そら見ろ、やっぱり気にしている。
 思わず頬が緩みそうになるのを懸命に堪え、城之内は「男に見つめられても嬉しくない」「折角の煙草が不味くなる」と何度も心の中で繰り返した。そうしながら、とうに不味く感じている煙をさも味わい深いものであるかのように胸の深くに誘い入れる。
 気分は落ち着いたか? 益々深みにはまったか?
 あぁ、煙草は精神安定剤代わりだなんて、誰が嘯いたんだろう。
「あのさ」
 いよいよ落ち着かなくなって、城之内は歯切れ悪くそう漏らしながらそろりと顔の向きを直した。
 そのまま、息を呑む。
 距離が近い。海馬の手がこちらに向けてすっと伸ばされるのを、不思議な思いで眺める。理解の追いつかない事態に覚える焦りと微かな苛立ちが、まるで他人事のように感じられた。
 長く形の良い指先が目前に迫り、顔の高さまで掲げていた右手に蝶のような軽さで以て触れ、そして、
「かい、」
 ば、と最後まで言い切らぬ間に―――短くなった煙草が指の間からもぎ取られていた。
「……あ?」
「吸わないなら消せ」
 言って、海馬はまだ長い吸い止しを容赦なく空き缶の口放り込む。
「あーっ!」
 僅かばかり底に残しておいたコーラがそれを受け止めてジュッと音を立てるのを虚しく聞く。隣では空気の読めない男が煙いだとか副流煙がどうとか語っているが、知ったことではない。
 ただ、城之内の頭にあるのは。
「一本いくらすると思ってんだテメェ…」
「貴様はまずその貧乏性をどうにかしろ」
 そんなことだから吸いたくもないくせにチェーンスモーカーの真似事をする破目になるんだと、呆れきった溜息を吐かれた。ぐっと言葉に詰まったのは、「勿体無い」を言い訳にしていたことまで綺麗に見抜かれていたからで。
 あぁそうですか、そこまで見てやがりましたか。それで無自覚とはいい度胸だ。
 平然とした顔でノートパソコンの蓋を閉じた男を恨めしげに見遣り、城之内は頭をフル回転させて計画を練り始めた。
 遠く、授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえる。腕の時計にちらりと目を落とした男がパソコンを左脇に抱え、ゆっくりと立ち上がる。
「っ、待てよ!」
 自分ばかりが振り回されるのは気に食わない、と半ば意地のような気持ちで、城之内は立ち去りかけた海馬の手をぐいと掴んだ。
 肩膝は地に付けたまま、中腰の姿勢で相手を見上げる。他意などまるでなかったが、取った右手を恭しく掲げるその様はさながら女性の前に跪いて愛を乞う軟派男のようでもあり。
 そう思った瞬間、作戦は決まった。
 如何にも億劫そうに振り返った男が、「何だ」と再び問うてくる。苛立ちを隠しもしない溜息混じりの声。だがその顔に呼び止められたことへの微かな喜色が浮かんで見えるのは、決して度の過ぎた自惚れなどではない筈だ。
 短く整えられた彼の爪の先に視線を落とし、城之内は密かにほくそ笑んだ。

 ―――さぁ、思い知れ。

「城之内くん、お昼一緒……に……、…?」
 バタン、と音を立てて開いた屋上の扉から、他と見間違えようのないパンキッシュな頭がひょこりと覗いた。その後ろからどやどやと現れるいつもの面子。
「よぉ遊戯」
 城之内は言葉途中でぽかんと口を開けて動かなくなってしまった親友と、同じく大袈裟に仰け反って石化している仲間たちに笑いかけるべく、パッと顔を上げた。
 その直前まで、彼が顔を伏せていた場所。
 声を発する寸前まで口唇が触れていた箇所。
 未だ彼の手の中に納まっている、それ。
 凍りついた空気の中、全員の視線がその一点に集中する。 即ち、無造作に重なり合った二人の手と手に。
「か、海馬くん…?」
 皆より一足早く我を取り戻した遊戯は、一人満足げな笑みを浮かべている城之内に少々慄きつつ、握り込まれた己の手を呆然と凝視している海馬に気遣わしげな声を向けた。
 彼のその優秀な頭脳は今、必死に現実逃避を試みているのだろう。同性から手の甲にキスされる、などという異常な事態は、彼にとって不名誉を通り越して全く想定外の出来事の筈だ。許容範囲を軽く超えてしまっているに違いない。
 だがやけに長く感じれらたその時間も、現実にはほんの数秒でしかなかった。
 正気を取り戻した海馬は弾かれたように城之内の手を振り払い、無言のままくるりと踵を返した。辛うじて耳に届いたのは、口惜しげに鋭く舌を打つ音。殺気混じりの怒号も罵倒も、行き過ぎた暴力もない。
 半ば以上血を見る覚悟を決めていた面々があれっと拍子抜けしてしまうほど、その立ち去り様はあっさりとしたものだった。
 それでも、城之内だけはそんな彼の背中を見送りながらひっそりと笑みを深める。
 まるで火のついた煙草に触れたかのような過剰な反応。小さく灯る赤い火は、その実800度の高温だ。触れれば酷い火傷を負う。
 ……無自覚なままでなどいさせるものか。
「城之内くん…、さっきの、何だったの?」
「ん?」
 恐る恐るといった風に尋ねてくる遊戯を見下ろしながら、両手を腰に当てた城之内はニヤリと悪戯めいた笑みを浮かべてみせた。
「宣戦布告、ってやつかな」
「? ふーん…?」
 今一つ釈然としない顔をした親友の肩を「気にするな」とばかりにぽんぽんと叩き、さぁ飯にしようぜ、と皆を促す。

 空気を洗っていく三度目の突風。
 未練がましく蟠っていた煙草の残り香が押し流され、千々に消えていく。 意識が、"こちら側" に引き戻される。
 煙の晴れた屋上で見上げた空の色は、校舎裏で燻っていたあの頃より遥かに透明で。

 そう、影を取り払ったあの男の瞳の色に良く似ていた。







+ END +




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monomoさま、リクエストありがとうございました!
皆の前で手の甲にキス、ということで最初に思いついたのは学園祭で演劇を〜という話だったのですが、「城之内くん→王子様、社長→おひ……待て!」と思考にストップが掛かりまして。
しかし書きあがったこれも……いやいや、海×城です! 誰が何と言おうと海×城です!
最近城サイドの片想い話が多かったので、社長にも片想いして欲しかったんです。

■ 2009.07.22 ■