はらりと頬に触れた冷たさに、自然、視線は空を仰いだ。
暗く厚い雲に覆われた天上からちらちらと舞い降りる白い結晶。
「雪、か…」
ジンと染み入るような冷たさを伝えてくる空気に、ごしごしとジャンパー越しの腕を擦る。吐き出した息もまた、雪のような白さで視界を覆った。
髪に、肩に、触れては消えていく儚いもの。
窓の明かりもとうに消えた街で静かに横たわる夜の黒と、風に踊る白の対比が幻想的だ。
雪に音を吸収されたかのような静けさの中、足を止めた琥珀色の瞳がゆるく瞬き、口唇から小さな呟きが零れ落ちた。
「アイツのとこでも…降ってんのかな」
くすりと笑う声はどこか楽しげで。
一抹の淋しさを覚えないではなかったけれど、時折掛かってくる電話越しの声を思えば。
今はただ、幸せ。
砂漠に降る雪
ふと我に返れば、その足はまだ暗い通路を彷徨っていた。
歩を進めるごとに闇は深くなり、冷たい空気がふるりと身を震わせる。
持ち込んだ火は今にも掻き消えてしまいそうに細く揺らめき、ジョーノはついにその足を止めた。
「マズったなぁ…」
引き返しているつもりが完全に迷ってしまったらしい。
非常時の逃走用に作られたこの隠し通路は、先導者がいなくては進めない複雑な迷路になっている。下手をすると黄泉への旅路にもなりかねない、と、それは親友にもきつく言い聞かされていた筈なのに。
余程頭に血が上っていたんだな、と溜め息を吐いてみても後の祭りだ。
視界の先にはただ暗い道が伸びるばかりで、最早どちらが前でどちらが後ろなのかも判断がつかない。
少し思案した後、ジョーノは諦めたようにその場に腰を下ろした。
冷たい石壁に背を押し付ければ、しんしんと押し寄せてくる孤独感。手にした燭台を脇に置き、膝を抱え込んできつく目を閉じる。
これ以上、下手に動き回らない方が良いだろう。この場でじっとしていればいつかあの男が―――いや、親友が、の方が可能性としては高いだろうが、きっと探しに来てくれる。
願わくば火が消えたことにすら気付かぬうちに。闇に呑まれてしまわぬうちにここから連れ出して欲しかった。
自業自得だとわかってはいても、カタカタと震えそうになる腕を押さえつけるだけで今は精一杯なのだ。
喧嘩の理由は下らないことだった。
否、下らないと思っているのはあの男だけで、恐らく自分にとってはとても大切なことだったのだ。
いつものように王宮に入り込んで、いつものようにあの男の姿を探して。
漸く見つけた彼に、「何の用だ」と呆れ顔で突き放されるのもまたいつものこと。今更その程度で傷付いてなどいられない。
「決まってんだろ。テメェと勝負しに来たんだよ」
ニヤリと笑んだ口元が引き攣ってはいないだろうかと多少気にしながら声を返せば、深々と溜息を吐かれてしまった。
「貴様はここがどこで、自分の身分が何なのか自覚しているのか?」
「…『ファラオ』がいいって言ってんだからいいだろ」
親友の気遣いを盾にそっぽを向く。
遊技場で勝負に明け暮れていた親友が王族だと知らされた時は流石に驚いたが、いつでも遊びに来て良いという言葉は素直に嬉しかった。
ただ、思わず別の期待が疼いてしまったのは、少しばかり良心の痛むところだ。
会うたび自分を貶してくる男の鼻を明かしてやりたくて、超えたくて。純粋に勝負がしたくて訪れていた頃はまだ良かった。
何をどう間違ったのか、やがて強い光を宿す碧眼に焦がれるようになり。
叶わぬと知っていて想い続ける、虚しい日々。
「貴様がいると気が散って仕方ない」
心底疎ましそうに漏らされた言葉に、今更、と言い聞かせながらも痛む胸を止められなかった。
「ひっでー奴だな。最初はテメェから仕掛けてきたんだぜ?」
「そうだな。広場のあれで終わりにしていれば、こうまで邪魔されることもなかっただろう」
「……ハ…、そりゃーご愁傷様で…」
いくつも棘が心臓に刺さり、じくじくと冷たい血を滲ませていく。声が震えたことには、気付かれなかっただろうか。
口の端を無理やり笑みの形に持ち上げて、ジョーノは瞳を覗きこまれないように頭を垂れた。
「ほら、闘ろうぜ。デッキも組み替えてきたし、そう簡単には…」
「ならばさっさと準備をしろ。早々に終わらせて追い返してくれるわ」
フン、と嘲笑う声に、プツリと。 ―――ジョーノの中で、何かが切れた。
ウェジュを模した護符を混ぜる微かな音。自分を追い返す為だけに始められるゲーム。
初めから何の期待も抱いてはいない。けれど、これはあんまりではないだろうか。
あまりにも、自分が哀れではないだろうか。
「……いい」
「何?」
「もういい。もうここには来ねェよ、それでいいんだろ!!」
「ジョ…、」
訝しげな声を振り払い、ジョーノは縺れそうになる足を叱咤して床を蹴った。
いつか、と覚悟していたことだから涙は出ない。どれほど虚しくても、あの男は初めからただの暇潰しとしてしか自分を見ていなかった。
それが解っていて、飽きたら簡単に手放されると知っていて、それでも傍にいたかったのだから仕方がない。悲しむのは筋違いだと解っている。 けれど。
邪魔になると思うなら、初めから部屋に入れなければよかったのに。
駄犬だと思うなら頭を撫でなければよかった。
「…ホント、勝手だよな」
俺は、と小さく呟いて、ジョーノは目の前の壁を強く殴りつけた。
自棄になっている自覚はある。
ぽっかりと壁に開いた入口を見遣り、ややあって置かれていた燭台にそっと火を灯した。
闇へと進む足は、まだ震えてはいない。
―――少しは心配してくれるだろうか。
叶わぬ期待が胸を過ぎり、ジョーノは自嘲気味に喉奥で笑った。
「…………」
暗い通路に蹲ったまま、ジョーノは目を閉じ続けていた。
どれ程の時が流れたのだろう。沈黙が耳に痛い。ジリジリと火芯を焼いていた火はとうに消え、聞こえるのは己の息遣いと早鐘を打つ鼓動だけだ。
火が無くなったことで、一段と寒気は増してきていた。通路は地下深くへと掘り下げられており、地表から離れれば離れるほど、外気とは比べ物にならない冷たさが剥き出しの肌を侵食してくる。
目蓋の裏には深い闇。目を開けても同じ色しか見えなかったら、自分は錯乱するだろう。それはいけない。冷静さを欠いてこれ以上奥へ迷い込むようなことになれば、救出される可能性は殆どなくなる。
自分が王宮を訪れたことは、親友である王にも伝わっている筈だ。いつまでも姿が見えなければきっと探しに来てくれる。……あの男が、と期待する方が間違っているのだ。
不意に目の奥が熱くなって、ジョーノは閉じたままのそこを強く擦った。
それでも溢れることのない涙は、もう諦め切っている所為だろうか。余計募る虚しさにきつく唇を噛み締める。
自業自得だと、あの男は笑うだろう。後先考えずこんなところに足を踏み入れるからそうなるのだと。
言いながら適当に頭を撫でて。…煩く鳴く子犬をあやすように。
今にも尊大な声が聞こえてきそうで、ジョーノはくつりと低い笑みを零した。他意もなく、動物に触れるように撫でてくる手がどうしようもなく嬉しかったのだから、自分も相当終わっている。
ふと、先刻見た不可思議な夢を思い出した。
白昼夢、とでもいうのだろうか。現実的とも幻想的ともつかない曖昧な情景を、懐かしさにも似た思いで眺めていた。
夢の中の自分が考えていたのは、ただあの男のこと。
幸せな気分がひたひたと伝わってきて、あれは確かに自分だと思うのに、何か別の人物のようにも感じていた。
自分は…あんな風にはとても笑えない。
立てた膝をしっかりと抱き寄せ、ジョーノはそこに顔を埋めた。
あとどれくらいこうしていれば良いのだろうか。
「くそ…、早く探しに来いよな」
自我を保つ為だけに漏らされた声は、けれど掠れていてとても頼りない。寧ろ必要以上に響いた音が益々孤独感を募らせ、泣きたくなった。
膝に額を擦り付け、いっそ本格的に眠ってしまおうかと無謀なことを考え始めた、その時。
『自業自得だろう。馬鹿犬が』
声は、唐突に降ってきた。
「な、…セっ、?」
反射的に目を見開いてしまい、変わらない視界の色に一瞬ひくりと喉が震える。
『こっちだ』
再度掛けられた声に慌てて周囲を見回せば、少し離れた位置に見慣れた人物が薄ぼんやりと浮かんでいた。
「…………!!!」
『落ち着け駄犬。つい先刻まで見ていた顔だろう』
パクパクと口唇を戦慄かせるジョーノに呆れきった溜息を吐いて、けれどそんな様子も微笑ましいと僅かに口の端を持ち上げる。
急に癇癪を起こして駆け出した犬の気配を追ってみれば、とんでもないところに迷い込んでおり。
思わず頭を抱えた自分を責める者は誰一人としていないだろう。こんな場所を教えたファラオもファラオだが、怖いもの知らずに入り込むジョーノもジョーノだ。
『頭は冷えたか?』
「…っ、テメェ、何で…」
ふるりと揺れた瞳が、躊躇いがちにこちらを見つめてくる。
光源など全く無い筈の闇の中、互いの姿だけは何故かはっきりと見ることが出来、ジョーノはそのことにもまた訝しげに首を傾げた。
答えるべく口を開いたセトの顔には、意地の悪い笑み。
『この身は貴様の記憶にある私の姿を投影したものだ。貴様にしか見えん。…しかし随分と鮮明に覚えているものだな』
低い声音が揶揄うように耳朶を擽り、ジョーノはさっと顔を赤らめた。
恐らく、千年錫杖の力なのだろう。まじまじと自らの身を眺め下ろしているセトの様子はどこか楽しげだ。
「…自分で追い出したくせに、探しに来たのかよ」
『フン、いつものように拗ねているだけなら放っておくがな。余計なことを言うからそうもいかなくなった』
トーンを落としたジョーノの声に合わせるように、セトの顔からも表情が消える。
らしくもない自嘲を浮かべている様に眉根を寄せ、セトは未だ座り込んだままの彼に一歩身を寄せた。腕を組んで静かに見下ろせば、居心地が悪いのか、ふいと視線を逸らされる。
「余計な、って何だよ」
『「もう来ない」のでは私が困る』
「…………は?」
真摯な瞳でキッパリと言い切られ、ジョーノは不覚にもぽかんと呆けてしまっていた。
あれほど邪魔だ邪魔だと言っておいて、あまつさえ追い出すためだけに勝負を受けようとまでして。
「今更…何言ってやがる」
呆れも怒りも通り越して、ただ哀しくなった。
口元に引いた薄い笑みすら剥がれ落ちそうになって、それを悟られまいと深く俯く。
この男の前で、自分は一体どれだけの虚しさを体感すればいいのだろう。どれだけ惨めな思いをすれば振り切れるのか。
何の他意もなく向けられる、甘い誘惑を。
無意識のそれは卑怯だと、軋む胸を押さえながらジョーノは一つ大きく深呼吸をする。
自然な笑みを浮かべる為に、いつもいつもいつも繰り返してきたその動作。これほどまでに痛む胸を抱えても、傍に居られなくなるよりはましだと思ってしまうのは……もうとうに、感情の枷が外れてしまっている所為だろうか。頭がおかしくなりそうだ。
「まぁ、お忙しい神官さまがわざわざ探してくれたってことで、今回はチャラにしてやってもいいぜ?」
そうしてニッと笑って顔を上げれば、何故か酷く不機嫌な色を宿した双眸がすぐ目の前で揺れていた。
息を呑む。
『貴様は本当に馬鹿だな、ジョーノ』
「ハ…、今更だろ。改めて言ってんじゃねーよ」
軽く笑っても流せない雰囲気を感じ取って、張り付いた笑みがそのまま凍りついた。
どんな顔をすればいいのだろう。深々と吐かれる溜息にこそ、本当は一番胸が痛むのに。
不意に上手く呼吸が出来なくなって、ジョーノは喉元に手を置いた。灼けるようにひりつくそこは、一言でも声を発すれば嗚咽を漏らしてしまいそうで。
『あぁそうだな。馬鹿にはもっとハッキリ告げてやらねば通じないらしい』
じんわりと唇を噛んだ彼の様子にまた息を吐き、セトは触れられないと知りつつもその金糸にそっと手を伸ばした。
『私は興味のないものをいつまでも鬱陶しく纏わりつかせておくほど気が長いわけではない』
知っているだろう? と続けながら、ぱちりと瞬く目元に口吻ける。
まさか、と否定することを許さず、仕草の端々に情を滲ませながら、解れ、と無言で訴える。
『言っただろう、貴様が傍にいると気が散って仕方ないと。愛らしいと思っているものに遠慮なくじゃれ付かれてみろ?執務どころではないわ』
「………っ!」
触れ合えない指先に優しく髪を梳かれ、ジョーノはくしゃりと顔を歪めた。
「わかんねーよ…っ、バカ」
発した声はやはり裏返りそうに引き攣っていたが、強張っていた肩の力が抜けたところを見るとどうやら正しく伝わったらしい。
「人のこと散々馬鹿にしやがって…。ホントの馬鹿はテメェの方じゃねーかよ、セト」
いい身分で平民に片想いなんて笑っちまう、とまだどこか手探り気味に小声で呟く。この期に及んでただの自惚れでは、と危惧しているのだろうが、これ以上逃げ道を用意してやるつもりはない。
『フン、あからさまな待遇の違いにいつまでも気付かぬ貴様よりはマシだ』
「解り難すぎんだよ!」
敢えて不遜な態度でそう告げてやると、照れたように大声を出したジョーノの瞳からほろりと一粒だけ涙が零れ落ちた。
それは漸く曝け出すことの出来た感情の一片。
『錫杖の力で道順の記憶を助けてやる。…早く戻って来い』
「あぁ…」
隠し扉の前で待っていてくれるであろう姿を思い描いて、ジョーノは久しぶりに何の含みもない心からの笑みを浮かべた。
そう言えば、白昼夢に見た自分もこんな笑みを浮かべていたのではなかっただろうか。
良かったな。
胸の内でそっと、あの遠い自分へと祝いの言葉を投げ掛ける。
もうこの先いつまででも、目の前の男のことを考えていられるのだ。
こんなにも幸せなことはない。
良かったよ。
自然に零れる笑みを絶やさぬまま、急くように足を進める先。
やがて暗い通路に光が差した。
――…の通路は過去にも未来にも通じていると言われているんだ。
へぇ?じゃぁ俺が見たあれもそうだったのかな。
どんな夢を見たんだい?
うーん、何か白いもやもやしたモンが空から降ってきてさ。
それがすげー綺麗で。
アイツと一緒に見れたら良いなって考えてた。
幸せな夢だったんだな。
おう!それに多分、お前もいるんだぜ。皆で見たいとも思ってたから。
光栄だな。
だろ?
それが確かな未来だと願ってるぜ、ジョーノ。
君にはいつの時代も幸せであって欲しいんだ。
何だよ、改まって。照れんだろ。
っと、漸く来やがったなセト!先に始めちまってるぜ―――…
不意にくらりと立ち眩みがして、城之内は空から地上へと視線を戻した。
随分長いこと呆けていたようだ。身に凍みる冷たい空気にぶるりと首を竦める。
酷く懐かしい夢を見ていたような気がしたが、立ったまま眠ってしまえるとは思った以上に疲れているのかもしれない。早く家に帰って風呂にでも浸かろう。
こういう時こそあの男の傍で、と願わないでもなかったが、彼は遠い地で夢を追いかけているのだからと、小さな笑みが零れた。
離れていても、こうして思っていられるだけでとても幸せな気分になる。
一歩踏み出した爪先は冷え切っていたが、先刻までよりもずっと温かくなったように感じられた。
願わくば彼もそんな気持ちでいてくれたらいい。
はらはらと降りしきる雪にまた笑みを深めながら、城之内はポケットの携帯にこつりと指先を触れさせた。
微かな振動が着信を知らせるのはそのすぐ後のこと。
いつの日も、いつの時代もあなたのことを想っていたい。
+ END +

5004hitを踏んで下さった竜人さんに捧ぐ『セト×ジョーノ』です。
うっかり甘くしすぎました…。隠し通路の穴があったら入りたいくらい恥ずかしいです。
うちの海城さんは感情のベクトルが海→城寄りなのですが、セトジョーだとセト←ジョーノになる模様。
竜人さんリクエストありがとうございました!
■ 2003.12.01 ■