それは如何にもな高級品ではなく、
しかし如何にもな安物であってもいけない。
欲しい形には気付いていたが、それを認めるつもりなど到底なかった。
過ぎたことだと解っているからだ。
二度と戻らぬものだと、本当は。
けれど時折、
疲れ果て、目を閉じた時などにその衝動は込み上げる。
意識を攫う、甘い香り。
……眩暈がするようだ。
SWEET PAIN
今日もまた見つからなかった。
海馬はもう随分と高くなった秋空を見上げて溜息を吐く。
彼は何も躍起になって「それ」を探しているわけではない。仕事の合間に気晴らしを兼ねて散策しているだけのことで、見つからずとも気を落とす必要などない…筈だ。
言い訳めいた思考に、また一つ溜息が漏れる。
懐かしい香りが今にも鼻先を掠めていくようで、海馬はらしくもないその衝動を日々持て余していた。
腕に抱えた包みからは、誘うように甘い香りが漂ってくる。
期待は薄い。だが。
海馬は僅かに目を眇めながら、香ばしい焼き色のそれを一つ、紙袋から摘み出す。
サクリ。
軽い音が耳を擽った。ほろほろと舌の上で崩れていくそれは、仄かな柑橘系の香りを振り撒いている。
「……甘い」
自ら買い込んでおきながら、海馬は盛大に眉を顰めた。当たりどころか大ハズレだと、辟易しきった顔で袋の表書きをついと見遣る。
『オレンジピールを練りこんだ爽やかな味わい』
「余計な真似を…」
忌々しげにそれを眺め、早々に袋の口を折り畳んだ。
大した期待もなく赴いた店ではあったが、人気商品らしい「チーズ風味」や「アーモンド風味」の表記を見て舌打ちを禁じ得なかったのは不覚だった。
そうまで「あの味」に飢えているとは、認めたくなかったのだ。
「…食えたものではないな」
どこかの駄犬にでもくれてやろう。
手にした袋をコートのポケットに仕舞い込み、海馬は何事もなかったかのように社への道を引き返し始めた。
夜。
暗闇の中にポッと仄かな明かりが灯される。
「ヘヘ。やっぱ暗い方が雰囲気出るぜぃ」
「うぅ…怖ェ…」
満足気に呟く後ろから、小さな肩をぎゅっと掴む腕。
「城之内ぃ…自分で作っといて何言ってんだよ」
ガチガチに身を強張らせた彼を振り返り、モクバは心底呆れた声を出した。
「明るいとこで見るのは平気だったんだよ!こんなことなら目の部分ハート型にしときゃ良かった…」
「そんなの、余計怖いぜぃ!」
場の雰囲気に圧されてか、二人はぼそぼそと小声で言い争う。その目前では蝋燭を入れられたジャック・オ・ランタンが煌々と瞳を輝かせていた。
大きく波型に裂けた口は、成る程、確かに迫力がある。それが幾つも並ぶ様は、怖がりの城之内には耐え難いものがあるのだろう。暗闇と異形の恐怖から少しでも意識を逸らそうと、きつく目を閉じてはそっと開くという無駄な動作を頻りに繰り返している。
先刻彼自身が彫ったものであるにも拘らず、だ。
「ホラホラ、もうすぐ兄サマが帰ってきちゃうぜぃ。スタンバイしとけよ」
「バッ…、一人にすんなよモクバァ!」
「ハイハイ、さっさと行った行った!」
「うぅ…この鬼畜ヤロー。後で覚えてろよ」
半ば涙声で扉の傍へと進んでいく彼の腰は完全に引けている。モクバは心の底から呆れながら、その正面に少し距離を置いて立った。
兄が扉を開けた、その瞬間に目に入る位置に。
「くそっ…来るなら早く来やがれ!」
「こっち見るのが怖いならドアの方だけ見とけばいいじゃんか」
「バカ、そっちはもっと真っ暗なんだぞ!ンな怖いこと出来るかよ!」
…モクバはもう何も言わずに肩を竦めた。
やがてコツコツと硬い足音が聞こえてくる。
「来たぜぃ!」
「解ってらぁ……って、これ本当に海馬の足音だよな…?」
何か変なのの足音じゃないよな?とまた不安がる声に深々と息を吐いて。
「…失敗したら恨むぜぃ城之内…」
「わ、わかったよ」
おどろおどろしい声を出せば強張った肩がびくりと震える。
そうこうするうちに足音は扉のすぐ向こうにまでやってきた。使用人と軽く言葉を交わすくぐもった声がこちらにも届く。
ごくり。
二人は同時に唾を飲んだ。
「…………」
扉の向こうから、何やら不穏な気配がする。
僅かに眉根を寄せた海馬は、ドアノブに掛けた手をぴたりと静止させた。
ぶ厚いその扉には、大きく『ワクワク』と書いてある…ように見える。
訝しがる彼の鼻先を、甘みを帯びた蝋の匂いがふわりと掠めていった。
(…成る程)
口の端を小さく持ち上げた彼は、見え透いたこの罠にかかってやるべきか否か、腕組みをして暫し思案する。
間違いなく中にいるだろう二人は、今頃焦れてヤキモキしていることだろう。緊張した面持ちで扉を見つめる様が目に浮かぶようだ。
海馬はクッと小さく喉を鳴らし、再びノブに手を掛けた。
(謀るというなら、乗ってやろう)
心内で呟いて、今度は躊躇いなくガチャリとそれを回す。
と。
「兄サマごめん!」
「うりゃぁ!」
「!?」
歩を進めた海馬の腰に、モクバが体当たりでもするようにしがみついてきた。
同時に背後からも襲い掛かる気配。
「…っ、貴様…!」
ぼふっ、と首をへし折りそうな勢いで被せられた帽子に思い切り顔を顰めながら、海馬はじゃれ掛かる犬をぎろりと睨んだ。
「似合うぜぃ兄サマ!」
「…モクバ」
ヘヘ、と笑うモクバは鍔の広い三角帽を目深に被り、同色の黒いマントを首元で蝶結びに止めている。その腕は海馬の腰と腕をまとめて抱き込んでおり…そんな楽し気な弟を海馬が無下に振り払えるわけがない。
溜め息を一つ吐く合間に、もう一人の無法者の手で揃いのマントまでしっかりと羽織らされてしまった。
「よっし、完成!モクバが手ェ放しても脱ぐんじゃねーぞ?すげー楽しみにしてたんだからな」
たまには子供の戯れに付き合ってやれと景気良く肩を叩かれる。
「……ならば貴様も着たらどうだ」
憮然として言い返せば、楽しげな口元がニヤリと笑んだ。
「それは無理」
「無理?」
訝しげに目を眇める海馬のマントを訳知り顔のモクバがつい、と引く。
「城之内は言う側じゃなくて、言われる側がいいんだって」
「おうよ。テメェ最近いつもピリピリしてっからな。たまには大人しく甘やかされてろ」
猫のように目を細め、城之内は海馬の前髪をくしゃりと掻き混ぜた。
先刻まであんなにも闇に怯えていたくせに、兄を前にした途端警戒を解いている。モクバは一歩身を引きながら、苦笑交じりに二人を見上げた。
(オレももっと城之内を飼い慣らさなきゃだぜぃ…)
あんなのでもうちの犬だしな、などと、甚だ失礼なことを思案されているとは流石の城之内も気付かない。
「それで、俺にあの台詞を言えと?」
「いーんじゃねェ?今夜くらい童心にかえってもよ」
甘く柔らかく響く言葉に、海馬はゆるく口の端を持ち上げた。穏やかな視線と腕が、傍らに立つモクバへと伸ばされる。
「…だ、そうだぞモクバ。精々この駄犬を揶揄い倒してやれ」
「誰が好き好んでイラズラを選ぶかよ!!」
「城之内、trickの意味知ってたんだな」
「モクバぁ〜…」
口唇を尖らせる城之内に二人はクスリと顔を見合わせて。
『 trick or treat? 』
高低差のある声音が綺麗に重なった。
手作りだと言う菓子を受け取り、モクバは満足気に自室へと戻っていった。
『トリート!』
もてなされる側より余程嬉しそうな顔をして言った城之内が差し出したのは、小さな袋。
ハロウィンらしくオレンジのリボンで口を絞られたそれを改めて手に取り、海馬は知らず穏やかな笑みを浮かべていた。
心情面においては不器用この上ない飼い犬だが、手先だけはそれなりに器用だ。ピンと張ったリボンの輪を見ただけで、鼻歌混じりにちょいちょいとそれを結ぶ城之内の姿が目に浮かんでくる。
そうして風呂上がりの濡れ髪を拭きながら寝室に足を踏み入れた海馬は、しかし先刻全て吹き消した筈のジャック・オ・ランタンが煌々と輝きながらこちらを睨みつけている様に思わずぎょっと目を瞠った。
「ここにまで持ち込んだのか…」
「折角苦労して作ったんだぜ。今夜ぐらい活用しなきゃ勿体無ェだろ」
…ベッドの大きな膨らみがくぐもった声を漏らす。
もそもそと目から上だけを覗かせる犬に、見ることすら怖いなら持ち込むな、と呆れ果てた吐息が漏れた。どうにもこの男の感覚は解らない。
「それよりさ。食った?さっきのヤツ」
「これか?食いたいなら食っていいぞ」
そら、と放り投げてやれば、慌てて起き上がった彼が両手でしっかと受け止める。
「馬鹿野郎!ぼろぼろになるだろーが!」
「?焼き菓子か」
軽く目を瞠ってそう問えば、きらりと炎を弾く琥珀が悪戯な笑みを浮かべながらこちらを見遣った。
「そ。誰かさんが最近大量に買い込んで来るやつな」
「………別に深い意味は無い」
海馬は僅かに目を逸らし、内心で小さく舌を打つ。
気に入らなかった菓子は全てこの犬に与えてきたが、必ず一度は開封されているそれに疑心を覚えたのだろう。普段通りの単純さでただ喜んでいればいいものを、余計なところで妙に深読みする癖があるのだ、この犬は。
「まぁいいから食ってみろって。多分、テメェが探してた味だと思うぜ」
差し出された包みと自信に満ちた言葉に、海馬はすっと目を細めた。
無言で包みを受け取ると、数度瞬きを繰り返した城之内が些か照れたように視線を泳がせる。
「良く考えたら、俺の作ったもん食わすのって初めてだな」
「そうだったか?」
リボンを解きながら思案するが、言われてみればそうかもしれない。しかしそれだけで頬を染めるとは、可愛らしいものだ。
カボチャ越しの蝋燭の火はゆらゆらと城之内の横顔を照らし、常よりもその表情を柔らかに、どこか幼く見せていた。細い蜜色の髪を優しく撫でてやりたいような気分になる。
海馬は密かにほくそ笑みながら、小さな袋に形の良い指先を差し入れた。
ふわりと鼻先を擽るのは、甘く香ばしいバニラの香り。
「…プレーンか」
「探してただろ?」
我が意を得たりとばかりに城之内がくつりと喉を鳴らす。
海馬がいつも買ってくるのはオレンジ風味やチーズ風味……一見プレーンのそれに見えるが食べてみれば別物、というものばかりだった。その度に押し付けられていては流石に気付くと言うものだ。
何の装飾もない素朴なクッキー。
程よい大きさのそれにサクリと歯を立てて、海馬は静かに目を伏せる。
―――胸を刺したのは、懐かしい痛み。
「…教えてやろうか、海馬」
眠りに就いた横顔をじっと見つめ、城之内は海馬の前髪をさらりと払い除けた。
先刻の、何の変哲も無いクッキー。形も味も、違った筈なのだ。海馬の探し求めていたそれとは。
それでもこんなにも、彼の心を揺さぶることに成功している。その理由が解るのはきっと自分だけなのだと、城之内は自惚れでなくそう思った。
―――欲しかったものは。
「家庭の味、ってやつ?お前が飢えてたのは……愛情だよ」
自分たちが等しく共有する痛み。互いに補い合おうとする飢え。
「足りてねェのかなぁ…」
自分はこんなにも、満たされていたのに。
苦笑しつつ、サイドボードに放置されていた包みに自身もそっと手を伸ばした。
サクリ。
封をすることを忘れていたそれは、少し湿った音を立てる。
口の中に広がる甘さと胸を締める甘い痛みに、城之内は自嘲気味の笑みを浮かべた。
家庭の味。母の味。
ずっと縁遠かった自分たちがそれに飢えを感じなくなることなど、きっと永遠に有り得ない。
けれどそれを忘れていられる程度には、互いを補え合えればいいと思うのだ。
もっと強くその手を握るから、放さないで欲しい。
やっと見つけたこの『家』から、どうか遠ざけないで欲しい。
今は隠された青い双眸を思い描いて、城之内は柔らかにその目蓋へと口吻けを落とした。
魔女が月夜を駆ける夜。
今はただ幸せな夢を。
+ END +

プレーンクッキーって案外売ってあるとこ少ないですよね。
■ 2003.10.31 ■