噎せ返るような花の香り
夢見るような甘い眩暈

切ない雨音に、酷い、頭痛がする

沈丁花

 折角の日曜日。それもバイトのない日だというのにどうにもついてない。
 曇るガラスを手の平で拭いながら、城之内は一つ小さく溜息を落とした。
 台所へと続く戸を開けてみたが、父親が帰った様子はない。またどこかの飲み屋で酔い潰れているのだろう。ツケもいい加減きかないんじゃねーの、と些か疲れた気持ちで湿った壁に凭れかかる。
 知ったことかと口では言えても、結局その被害を被るのは自分なのだ。
 日に日に増して行く借金に、溜息の数は増えるばかり。
「ったく、やってらんねーっての…」
 雨と父親の不在の所為で、彼は起き抜けから頗る不機嫌だった。
 とは言え今日は折角の休み。雨が何だ、遊びたいものは遊びたい。
「遊戯ンちでゲームでもすっかなー。でもあそこまで行くのが面倒くせェんだよなぁ…」
 雨の中を出掛ければ靴が濡れる。ジーパンの裾が濡れる。下手をすれば全身が濡れる。
 元より不機嫌だったこともあって、面倒くさがりな自分がいつもより余計に顔を覗かせていた。
 しとしとと降り続く雨音に、陰鬱とした気分ばかりが募っていく。けれどこうして何もせずに時間を潰しているのも勿体無い。
(今どんぐらい降ってんだ?)
 小雨ならば出掛けても良いと、城之内は気怠い身体を窓辺へと運んだ。冷たい窓枠に手を掛け、滑りの悪いそれをよいせ、と力を込めて引く。
 だが。
「……あぁ、こりゃ駄目だな」
 しとしとと聞こえる雨音も、頬に触れた湿り気も気にはならない。ただ鼻先を掠めた花の香りに目を眇め、彼はふいと表情を消した。
 開けたばかりの窓を隙間なく閉め、そのままごろりと横になる。
 眠ってしまえば忘れられるとばかりに目を閉じてみたものの、吸い込んだ香りが未だ肺の中で燻っているようで具合が悪い。
 鈍い痛みを訴え出したこめかみをぐっと押さえ、城之内は頭を抱え込むようにして身体を丸めた。


 耳に響くいつかの子守唄。
 夢でまで香る沈丁花。
 眠りに落ちた筈の頬を熱い雫が伝っていく。

 (いい加減にしてくれ)

 こんな夢は、見たくないのに。





 昔の話だ。
 あれはそう、殴り、蹴られることすらどうでもいいと感じ始めていた頃で、それでもまだ少し足掻いていたかった頃。
 団地の近くには、あの花の木が植えられた公園があった。
 そして自分はその公園のベンチで、一度、死にかけた。
 家から逃げ出し、無謀にもそこで野宿をしようとしていた自分は、寝ている間に冷たい春の雨に打たれ、翌朝病院の白い一室で目を覚ましたのだ。
 周りで覗き込んでいたのは知らない顔ばかり。

『危なかったのよ』
『助かって良かったわ』

 他人の温かな言葉が降り注ぐ。


 ―――家に帰るとまた殴られた。


 探されてもいなかったことを、もう自分は本当に、何とも思えなくなっていた。
 身体は死を免れても、感情はあの日確かに一度死んだのだ。

 ただ、幼い妹の泣き声だけが、唯一本能を捨てさせなかっただけで。
 泣く、という行為を忘れさせなかっただけで。

 涙は溢れても心は痛まなかった。


 あの日死んだ自分は戻ってきたのだろうか。
 今ここにいる自分は自分だろうか。





 ピリリ、と殆ど着信の無い携帯が立てた音で意識が浮上した。
 頭が痛い。瞼が重い。熱くて、重い。
 雨の音やすぐ傍の道を車が走る音がやけに遠くに聞こえた。誰もいないこの部屋は、まるで世界から切り離されているかのようだ。
 放置していた携帯はその後も何度か鳴っていたが、やがて静かになった。
 今はそれでいいのだと思う。自分のこんな情けない姿を、声を、無駄に聡いあの男に悟らせるわけにはいかない。
 明日には花の香りを無視出来るよう、今のうちに痛みを反芻しておこう―――そう思い、再び目を閉じて。

 階下に聞こえたブレーキの音。
 階段を上ってくる聞き慣れた靴音。

(あのバカ、ここには来るなっつっといたのに…)
 誰かの腕の中で泣くなんて、自分には贅沢すぎる。

「…何をしている、犬」
 勝手に作った合鍵で無遠慮に部屋に踏み込んできた男は、だらしなく畳に寝そべった自分を見つめ、不可解そうに眉根を寄せた。
「電話に出ないと思えばこんな時間から惰眠を貪っていたのか。いい身分だな」
「…るせェよ」
 すん、と鼻を啜り上げながら、城之内は掠れ声で悪態を吐く。開かれた扉の向こうにその姿を見つけた瞬間、心底安心してしまった自分が情けない。
 だが、泣き腫らした目に気付かない筈はないだろうに、海馬はそれについて何も聞こうとはしなかった。
「行くぞ」
 起き上がれずにいる自分の腕を、ただ強く引いて。
 甘やかすのが上手いのか、それとも単なる天然か。何にせよ、握り込まれた手首の痛みが夢の中の痛みを覆い隠してくれたのは助かった。
 先刻までの陰鬱とした気分が、波が引くように穏やかに去っていく。
「……サンキュ」
 城之内は睫毛を濡らす涙を瞬きで払い、小さく笑った。


 外へ出て、より強く香る花の香にまた涙を誘われかけたけれど、隣に立つ男が「気色悪い」と殴り付けてきたので、今だけは少し忘れていられそうだ。
 力ずくで自分を救い上げたその腕に、城之内は縋るように爪を立てた。







+ END +




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突発プチ暗話。
沈丁花、ホントは大好きです。金木犀と並んで強い香りがとても。

■ 2003.03.04 ■