02.金網の向こう側

 酷く懐いている猫がいる。
 いじらしいほど懸命に尾を振って、頭を撫でる手にじゃれ付いて、けれど決して喉元には触れさせない、猫が。



 急な呼び出しを受けて深夜の会社へと出向いていた海馬は、事態が漸く落着の兆しを見せ始めたところで一人給湯室へと足を運んだ。
 節電モードになっていた電気ポットのスイッチを入れ、水を足して、湯が沸くまでにカップとドリップパックを用意する。社員が目にしたなら卒倒しそうな光景だが、彼にしてみれば何ら気にするようなことではないのだ。コーヒーの味に特別な拘りがあるわけでもない。
 新商品の開発室では未だ慌ただしく人が動いている。社長であると同時に開発者でもある海馬がこの時間に呼び出されることは、最近では然程珍しくもなくなっていた。下手な遠慮をしてミスを重ねるくらいなら寧ろ叩き起こせと常々告げてあるからだ。
 そんな夜を共にしていることが多い城之内は「もっと社員を信用してやれよ」と苦い笑みを向けてくるが、こればかりは性分なのだから仕方がない。そして事実、自分が足を運んだ方が余程効率良く事が運ぶのだ。
「無能どもめ…」
 呟きながら、けれどその声に不機嫌な色はなかった。仕事とは言え所詮好きでやっていることだ。楽しんでいると言っても差し支えないだろう。

 そう言えば部屋に残してきた犬はどうしているだろうか。

 漸く沸騰した湯をドリップパックに注ぎながら、海馬はふと数時間前の光景に思いを巡らせた。
 最早諦めているのか呆れているのか、いつも何も言わずに自分を送り出すあの男は、最近少し様子がおかしいように思う。


 あれは冷え込みの増してきた昨今でも特に寒い夜だった。
 いつものように呼び出されて出社していた海馬が屋敷に戻ると、適温に保たれている筈の室内はほぼ外気と変わらないまでに冷え切っていた。
 大方空気の入れ替えでもしていてそのまま寝入ってしまったのだろうと眉を顰めていると、意外にもベッドの中の城之内はうっすらと目を開け、こちらを見ていて。
 「おかえり」という小さな掠れ声を引き継いだのは、「寒い」という言葉と小刻みに震える指先だった。
「空気を入れ替えてたら、寒すぎてベッドから出れなくなっちまってよ」
 苦笑混じりに紡がれた台詞に、然もありなんと鼻白む。
「だから駄犬だと言うのだ、貴様は」
 呆れ果てた顔でそう告げてやると、彼は少し困ったように笑っていた。
 その夜はそれで終わり。行為の途中で放置してしまった侘びにきっちりと温めてやって、それで、他にはこれと言って何も変わったことなく眠った筈だった。

 けれど後日、彼はまた同じことをやったのだ。


 わざと冷たくした部屋で震えながら手を伸ばしてくる城之内の顔を思い浮かべてみる。やはり普段と変わりない、締まりのない顔だ。
 けれど自分の首の後ろに腕を回してすがり付いてくる時の彼の仕草は、普段より余程人懐っこいそれであるのに、何故か犬よりも猫を髣髴とさせた。
 人を食ったような小憎たらしい笑みを浮かべて、交わす言葉の応酬もいつもの通りで、一見何の違いもなく見えるのに。
 それは確かに、別の生き物なのだ。

 その目が何を訴えているのか、読めない。何を考えているのか解らない。
 そんな時、海馬は二人の間に突然高いフェンスが打ち立てられたような錯覚に陥る。
 お互いの姿を見ることも会話をすることも金網の隙間から触れ合うことも出来る。けれど、確かにそこで世界は分かたれていた。

 ぽつんと一匹、金網の向こうからこちらを見つめている猫。

 それは酷く物寂しい光景だった。
 この金網の向こうにそれを飼っているのか、それともこちら側の自分こそが飼われているのか、そもそもこの聳え立つフェンスは互いの何を隔てるものなのか―――。
 いっそ不快なほど何もかもが解らない中で、それでも一つだけ解っていることもある。
 いつかあの猫が自分に背を向け、金網の向こうの遥か遠くへと去って行ってしまった時、自分はきっとそれを酷く惜しむだろうということだ。それくらいの執着はある。寧ろ執着のないものは猫であれ犬であれ初めから傍に置いたりなどしない。


 今日も城之内はあの部屋の窓を開けているのだろうか。
 金網の向こうの彼の世界は荒涼として酷く寒々しい。温もりをねだって擦り寄ってくる身体はいつも冷え切っている。
 けれどそれが解っていても自分は深夜の外出をやめはしないし、城之内もまたそれを止めるようなことはしない。
 或いはこの意地の張り合いの象徴こそがあの高い高いフェンスなのかもしれないと、海馬はすっかり温くなったコーヒーを苦々しい思いで飲み干した。

2005.12.12



メニューへ