04.電話越しの声

 境界線がある。
 決して越えられない線。その上に聳える高い高いフェンス。自分たちの世界はそこで見事に二分されていた。
 けれどそれが分厚い壁でない限り、互いに干渉することは出来る。
 例えば金網の隙間から指を差し入れ、温もりを確かめることは出来る。例えばその隙間から相手の動向を見つめることは出来る。

 そして例えば声ならば――――届く。



 それを見たのはいつだったか…恐らくはバイト先のファミレスで賄いを食べていた時だと思う。家ではゆっくりテレビを見ることなど出来ないから、休憩室のあのこじんまりとした画面で見ていたのだろう。
 些か草臥れた感じの司会者が不釣合いに派手なセットを背に、さして名の知れているわけでもないカウンセラーを招いて「あなたのお悩みにお答えします!」と謳う、不景気な昨今にありがちの三流番組だった。
 電話をしていても彼の声が冷たい、思い遣りがない、別れる、と一方的に言い募る相談者に、本物かどうかも怪しい中年の女性カウンセラーは優しく語りかける。

「電話越しでは相手の表情が見えないでしょう?顔を見ずに話していると、ちょっとした響きの違いも冷たく感じたり、つんけんに聞こえたりするものなの。だからもう一度、直に向かい合って話してごらんなさい。きっと声だけでは伝わらなかった彼の本当の気持ちが見えてくるわ」

(マジか)
 城之内がまず思ったのはこうだ。
 カウンセラーという職業の人間が本当にこんな杜撰なアドバイスをするのかどうかはさておき、何となく痛いところを突かれたような気になって思わず画面を凝視した。
 あの男と自分の会話など、最近ではその殆どが電話越しだ。声だけで気持ちは量れない、信用出来ないというならば、受話器から聞こえる低い声音がいつもよりどこか優しく思えたのは単なる自分の願望だったのだろうか。
 含み笑うような愉しげな気配も、通話を切るのを惜しむかのように吐かれた溜息も、そうであればいいと願う自分の愚かな錯覚だったのかもしれない。受話器の向こうにいる男は本当はいつも通りの渋面で、自分との会話を楽しもうなどとは思ってもいなくて、…いや、それどころかその隣には自分の知らないどこぞの御令嬢がしどけなく座ってさえいたかもしれないのだ。
 成る程、こうして考えてみれば確かに電話という手段は信用の置けない点が多すぎる。
 そして城之内は、もし本当に海馬が他の誰かを横に据えておざなりに電話をしてきたのだとしても、自分がそれを非難出来る立場にはいないのだということを良く理解していた。
 自分たちの関係に束縛の二文字は存在しない。ただ、一方通行な執着があるだけだ。


 そんないつかの出来事を不意に思い出したのは、まさに今、艶やかな女性をエスコートして夜の街に消えていく海馬の姿を見つけてしまったからだ。
 傍には彼らを乗せてきたのだろう黒いリムジンが停まっていた。だがそれも、暫しして滑るように走り去っていく。
 朝まで迎えには来ないのだろうか。
 下世話なことを考えた城之内の背中に、つ、と冷たい汗が伝った。彼らの歩み去った方向を見遣り、立ち尽くしたまま動けずにいる。どうしたらいいのかわからない。追い掛けるべきなのか。呼び止めるべきなのか。
 呼び止めて、その後は?あの真っ直ぐな青い瞳に、一体何を言えばいい。
 固まった足の先からじわじわと焦燥が這い上がってきた。乾いた唇を舐めて湿す音がやけに大きく聞こえる。ひび割れたそこはぴりりと痛みまで訴えてきた。
 あぁ駄目だ。
 自分はこんな風になってはいけない。いつ切れてもいい、何の未練もない関係なのだと割り切らなければいけないのに。


(…電話)
 気付けば尻ポケットに入れたあの男専用の携帯が、バイト中に設定したマナーモードのまま音を立てずに震えていた。男の去った方向を見つめたまま、何故か滲んで見える景色に小さく首を傾げて城之内は無気力に通話ボタンを押す。

『バイトは終わったのか』

 もしもし、の前置きもなく耳に響いた声は、やはり直に会う時よりも甘く聞こえた。電話越しの彼は優しい。鼓膜を震わす低い声を、素直に好きだと思う。
 先刻の女性を隣に置いて、彼は今どんな顔で電話をしているのだろう。

『今夜も邸には戻れそうにない。…が、夜食くらいは用意させておこう。帰りに食っていくといい』
「いいって、テメェがいないのに上がり込むほど図々しくねーよ。いつも言ってんだろ」

 へらりと笑ってそう告げると、城之内は海馬の去って行った方向から無理やり視線を引き剥がした。
 追い掛けて呼び止めて、自分以外を傍に置くなと罵る。…そんな馬鹿げた真似など出来る筈がない。彼の領域に踏み込む権利は彼だけが持っている。自分はただ一言の声でさえその場所へ届けるつもりはなかった。
 そして自分の領域にもまた、彼を招き入れはしない。いつか一人に戻った時、呼吸すら満足に出来なくなっていては困るのだ。

『…どうした』

 自嘲しながらゆっくりと踵を返した城之内の耳に、用件が終わっても未だ切られない電話から些か訝しげな声が聞こえてきた。

「あ?何がだよ」
『声の調子がいつもと違うな』

 返された言葉に、折角歩き出そうとしていた足が再びピタリと止まる。滲んだ視界が余計に揺らいで、城之内は気を落ち着けるように大きく息を吸い込んだ。
 ―――いつも。
 そういつも、どうして彼は電話などしてくるのだろう。この奇妙な習慣は一体いつから始まったのか。何故窓を開けて眠るのかと問われた、あの翌日からではなかったか。
 邸に帰れない時は必ず、自分が待ち惚けずにすむように、…寂しい思いをしないように。
(…見透かされてんのか)
 俯いた城之内の口元がゆるく持ち上がり、く、と小さく喉が鳴った。強く握り締められた携帯が手の中でをみしりと軋みを上げる。

「気の所為じゃねェの」
『そうか?』
「そうだよ」

 言って軽く鼻先で笑い飛ばした声音は、まるで自分のものではないようだった。
 黙り込んだ男は今度こそ通話を切るだろう。そうしたら自分は暫くの間携帯の電源を落としておくつもりだ。充電器をなくしたとでも何とでも言って、窓を開け放ったあの部屋でいつまででも待ち続けてやる。妙な気など遣われたくはない。
(…早く切れよ)
 不自然な間が気になって、それでも自分の方から通話を切ることは出来なくて城之内は人の行き交う街路に立ち尽くした。受話器の向こうの沈黙も、微かに聞こえる息遣いさえも柔らかなものに思えてしまう自分はきっとどうかしているのだ。
 隣のあの人に失礼だろう、と、そんな言葉が喉元まで出掛かっては霧散していく。これ以上惨めな思いはしたくない。

『…一つ教えておいてやろう』

 堪えるように滲む視界を閉ざした矢先、溜息交じりの声音が耳に響いた。何事かと意識を傾ける城之内に、迷いのないその声がきっぱりと言い切る。

『声は嘘を吐けない』
「…へぇ」

 テレビの胡散臭いカウンセラーとはまるで逆のことを言う。可笑しそうに笑ってみせると、「聞け」と不機嫌に遮られた。説教めいた言い方がやはり愉快だと、思考を逃がすようにぐるぐる考える。
 けれど。

『嘘を告げるのは言葉だ。声そのものではない』
「…………」
『何を気に病んでいるのかは知らんが…』

 言葉を切ったことで生じた沈黙に、女性の声が微かに響いた。何を言っているのかまでは解らない。けれど海馬が途中で通話口を押さえたのは解った。
 城之内は携帯を持つ右手にぎこちない仕草で左手を添えた。指先はいつの間にか小刻みに震えて、小さなその機体を持つことさえままならなくなっている。
(待てよ)
 声が出ない。
(切らないでくれ)
 この電話が終わったら、誰にどんな顔でどんな声を投げるのか。堪えていた嗚咽が喉をせり上がってきて、肝心な時に何も言えない。これまで言いたいことの全てを殺してきた報いか。
 やがて再び聞こえてきた海馬の声には僅かな焦りが滲んでいた。

『携帯の充電は常に怠るなよ。…また電話する』

 プツリと耳障りな音を立て、電話が切れる。


 城之内は思わず口元を押さえた。
 もうこの口から、どんな言葉も紡ぎたくない。何を言っても嘘と虚勢にしかならない。
 そうしてしかあの男の傍にいられないことが、そうしてでもあの男の傍に居たいと思ってしまう自分が嫌で嫌で嫌で仕方がなかった。いつから自分はこんな風になってしまったのだろう。
 城之内は手で覆った口唇を血が滲むほどに噛み締め、目元に溜まっていた涙を乱暴に拭い去る。携帯の電源を切ろうとしてふと目を眇め、そのまま苛立たしげにポケットに捻じ込んだ。
 電話越しであっても何の疑いもなく自分の心情を見抜いた男と、いつか真実で向き合う日が来るのだろうか。
 初めて関係を持った日から今までに、自分は何回彼に本当の言葉を伝えられただろう。常に終わりばかりを見据えて、届く筈の声にさえ耳を塞いで、けれどそうしながらもあの男の指が自分以外に触れることを恐れている。
 覚悟していたつもりがまるで出来ていない。そのことに今日、気付かされた。
 これからどうすればいいのかわからないまま、城之内は海馬の去った方向に背を向けて歩き出す。

 『また電話する』

 いつもより甘いその声を信じて待ってしまうだろう自分を、心の底から嫌悪した。




「そんな優しい顔もなさるのね」
 少し離れた位置で自らも会社に連絡していた彼女は、海馬が通話を終えるのを見計らってゆっくりと歩み寄ってきた。何のことかと肩を竦める彼にくすりと上品な笑みを漏らし、艶やかな口唇をゆるくしならせる。
「貴方、とても不器用そうだもの。電話は顔が見えないから安心して甘やかせる、ってところかしら」
「…………」
「彼女を不安にさせちゃ駄目よ?」
 内緒話をするように目を細めて、ウェーブがかった長い髪をふわりと後ろに払いやった。柔らかな香りが鼻先を掠めたと思った次の瞬間には、互いにもう企業人の顔に戻っている。
「さて、それじゃぁ商談に移りましょうか」

 書類の束を手に取りながら、海馬は胸元にしまい込んだ携帯に、そこから聞こえていた城之内の声に少しだけ思いを馳せた。
 今にも泣き出しそうな声。
 相変わらず無駄に意地を張りたがる犬だと内心舌打ちながら、彼が携帯の電源を切っていないことをただ祈った。
 今、会いに行ってやることは出来ない。直に顔を合わせてしまえば、電話越しに話す時のような無様な態度で接してしまいそうで怖かった。


 どちらもが同じように臆病で、届く筈の声さえすれ違う。
 仕事を終えた海馬がかけた電話に、城之内はわざと出なかった。

2005.01.24



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