Workaholic
「もう、何で止めてくれなかったんだよ」
そう言ってむくれる子供をまぁまぁと宥めながら、城之内は苦い顔で笑みを浮かべた。
時刻は夜の九時。主の帰りが遅いこの屋敷では、丁度今頃がディナータイムとなっている。
実際はそれより更に遅く帰宅することの多い兄を待って、健気な弟が「せめてこの時間までは」と粘っているからだ。
その弟君から、「今日は兄サマも早く帰るし、一緒に夕飯食おうぜぃ!」とお誘いのメールが届いたのは、放課後、城之内が仲間たちと寄り道の計画をあれこれ練っている時だった。
本日珍しくバイトが入っていなかった彼は、当然友人たちとの時間を楽しむつもりでいたのだが、暫し悩んだ末に予定を変更。
思えば互いに多忙な日々が続いていた為、もう一月ほど兄の方の顔を見ていなかったのである。
「折角城之内も来てくれたのに、兄サマってば…」
口唇を尖らせながらもう何度目かになる溜息を吐いたモクバは、恐らく自分たちがこのところ会えていないことに気を揉んでくれていたのだろう。計画通りにいかなかったことと彼自身の寂しさもあって、すっかり臍を曲げてしまっている。
結論から言うと、海馬は本日開発室にお泊まりになった。
密かに心浮き立たせながら屋敷を訪れ、門の前まで来たところで海馬本人からその連絡を受けた城之内は、然もありなん、と苦笑しながら伝言を引き受けた。
モクバから自分が来ることを聞いていたのだろう彼は、「区切りの良いところまで進めてしまいたい」と仕事馬鹿らしい台詞を残して早々に通話を切ってしまい。
兄と違って気遣いの心を忘れない弟は、そのことにも腹を立てているらしい。
「だからそれはいいんだって。あいつにしか対処出来ねェってんだからしょうがねーだろ」
男は働いてなんぼだしな、と笑いながら、城之内は「それよりセロリ残すな」と目敏く指摘した。嫌いなものをさり気なく皿の端に除けていたモクバは、しまったとばかりに顔を顰めている。半ば無意識にやっていたのだろうが、理由のない好き嫌いを見逃してやる城之内サマではない。
「城之内ってそういうとこ兄サマに似てるよなー。教育熱心って言うかさ」
涙目になりながら添え物のセロリを嚥下したモクバは、後味を紛らすように水を飲み干してから、体裁悪そうにそう呟いた。
城之内は思わずぱちりと目を瞬き、次いでふっと目元を和らげる。
「まぁ兄貴ってのはどこもそんなもんだろ。弟や妹にはすくすく育って欲しいもんだ。俺もガキの頃はピーマンが大っ嫌いだったんだけど、静香が真似して残そうとするから無理して食ってたっけな」
「へぇ。そう言えば兄サマも好き嫌いは……、……あ」
「え、あんの、あいつ?」
そりゃ兄貴失格だ、と言わんばかりに声を低めて目を眇めると、モクバは「いや、ないぜぃ! ないない!」と慌てて胸の前で両手を振った。兄の名誉を守らんとするその仕草は、普段背伸びしがちな彼の子供らしい一面を窺わせて、非常に微笑ましい。
双方の食事が終わったことを悟った給仕たちは、穏やかながら無駄のない動きで皿を下げ、代わりに食後のコーヒーを運んできた。
目の前に置かれたカップからは、インスタントにはない奥深い香りと、仄かな湯気が立ち上っている。
「あーでも兄サマ、俺には休め休めって口酸っぱくして言うのに、自分は開発室に缶詰でまともに寝てないんだもんなぁ。人に言うからには自分も実行して欲しいぜぃ」
くゆる湯気を溜息でふうっと散らし、猫舌らしいモクバは両手で持ったカップにほんの少しだけ口をつけた。
いつ倒れるか気が気じゃない、と不機嫌な声色で呟く彼は、怒っているというよりどちらかと言えば呆れに近い表情で眉を下げている。何度言っても聞き入れられない為、どうしたものかと困り果てているのだろう。
そんな兄思いの弟を和やかに見つめながら、しかし城之内は敢えてその言葉に頷くことはしなかった。
「まぁ、仕事に関しては好きにさせてやりゃいいんじゃねェ?」
「何でだよ。お前も心配だろ、兄サマのこと」
眉間に皺を寄せて怪訝な目を向けてくるモクバに「あー」と曖昧な声を返し、誤魔化すようにカップの取っ手をくるりと右向ける。
「あいつが好きでやってることだし、ぶっ倒れようとやめねーだろ。なら気の済むまでやらせときゃいいんじゃねェの」
「そりゃそうだけど……だからこそ止めたいんだよ。急ぎの案件ならともかく、今日のアレなんて、無理に今やる必要はないんだしさ。まさかと思うけど城之内、さっきの兄サマからの電話、『頑張れ』とか言っちゃってないよな?」
黒目がちな瞳にじろりと睨み上げられ、城之内は思わず明後日の方向を向いてコーヒーを啜った。…が、モクバと同じく猫舌である彼が、淹れたてのそれを口いっぱい含もうとすればどうなるか。
「もう! 城之内は兄サマを甘やかしすぎ!」
言って眦を吊り上げたモクバは、案の定大袈裟なまでに肩を跳ね上げて水を探しだした彼の手元から冷えたグラスを取り上げると、見せ付けるように一気に飲み干した。
午前一時を回った頃、寝室の扉の向こうに人の気配を感じた城之内は、ははん、と一つの予感を覚えながら静かにベッドを下りた。
海馬の私室へと続くその扉を開けると、案の定、デスクライトだけをつけてノートパソコンと向き合う社長様の姿が目に入る。
「泊りじゃなかったのかよ」
こそばゆさを堪えながら絨毯の上を素足で歩み寄り、よいせとばかりに執務机に腰掛けた。
「下りろ」
「いいだろ、邪魔になる位置でもねェし」
即座に飛んだ非難の声にひょいと肩を竦め、それより答えを寄越せと軽く机を叩く。
「予定より早く片付いたからな」
それに明日は昼出だ、と告げながら、海馬はパソコンの蓋を閉めておもむろに立ち上がった。リクライニング式の執務椅子が反動でゆらゆらと揺れている。
「へぇ? 珍しいな」
「飼い犬が久しぶりに家に寄り付いたというのに、全く構ってやらないのも哀れだろう?」
言って漸くこちらを向いた男は、ニヤリと口の端を吊り上げ、思わせぶりに目を眇めてみせた。
「叩き起こす気満々かよテメェ」
苦笑混じりにそう返しながら、城之内はネクタイを緩めてシャワールームへと向かう男の姿をついと目で追いかける。
主のベッドを寝床にしている時点で今更、とは自分でも思うが、寝込みを襲われるのは本意ではない。だが、どうしても、と乞われれば、翌朝の配達に間に合わなくなる時間でない限り応じてしまうのだ。
甘やかしている自覚はあれど、それだけしかない自分たちの繋がりをもっと確かに感じたいと思ってしまうのだから仕方がない。
「そう言えばさ」
ふと思い出して、城之内は脱衣所へのドアノブを握り締めていた海馬を呼び止めた。
「今日、モクバに怒られたぜ。結構怖いのな、あいつ」
冷たく固い執務机から尻を上げた彼は、この部屋での定位置となっているソファにどっかりと胡座を掻きながら、やけに愉しげな口ぶりでそう告げる。
「…何を仕出かした」
「何で兄サマの無茶を止めてくれなかったのか、ってさ」
胡乱な眼差しにニンマリと意地の悪い笑みを返すと、ただでさえ可愛げのない男の顔が益々強面に……否、決まり悪げな顔になった。可愛い弟との約束を幾度となく反故にしてきたことに、多少なりと罪悪感はあるのだろう。ただ、引き止める理由として挙げられるのが自分の身を案じる言葉ばかりであった為、「それなら問題ない」の一言で済ませることが出来たのだ。
「貴様は止めたかったのか」
過信は良くねーよなー、と呑気に考えていた城之内は、不機嫌な声音にそう問い掛けられ、おや、と意外そうに首を捻った。
「止めて欲しかったのかよ」
「それはない」
「じゃぁいいだろ。テメェは仕事とカードしか楽しみがねェんだから、取り上げるわけには……ッててててて! あにすンだテメェ!」
無言でずんずんと近付いてきた男にむんずと髪を掴み上げられ、思わず目を潤ませながら吠え掛かる。不本意ならまず口で言えばいいものを、この男はどうして初手から実力行使に出たがるのか。
「つまり貴様は、俺のことなど心配ではないと」
「テメェ本気でそれ言ってんならぶん殴るぞ」
こちらを見下ろしながら腕組みをして寝言をほざく男に、城之内はぎろりと険しい眼差しを向けた。が、自分と同等かそれ以上に修羅場慣れしている彼に、そんなものが通じる筈もない。
「…俺はただ、テメェが好きでやってることに口出したくねェんだよ」
ややあって、城之内は諦めたようにがしがしと頭を掻きながら、ぼふん、とソファの背に凭れかかった。
「心配ならモクバや屋敷の人がこれでもか、ってくらいしてくれるだろ。なら俺は、違う部分を受け持ってもいいんじゃねェかって」
「フン…犬らしい単純極まりない考えだな」
「うるせェ、テメェもそれで助かってんじゃねーか」
やれやれとばかりに溜息を吐く男を上目遣いに見遣り、外したばかりで肩に下がっているネクタイの両端を、ぐいと一纏めに引き寄せる。横暴なその所業に眉根を寄せた海馬は、しかし敢えてその力に逆らおうとはせず、肘掛けに手をついて素直に顔を近付けてきた。
そんな些細な譲歩が、何となく嬉しい。
城之内はごく近い距離にある整った顔を見つめながら、ニッと明け透けな笑みを浮かべた。
「テメェ、夕方モクバじゃなく俺に連絡してきただろ? あれって俺なら何も言わずゴーサイン出すってのが分かってたからじゃねェ?」
「まぁな」
「それって、ある意味俺のこと信頼してるってことだろ」
言葉に、海馬は軽く目を瞠り、満足げに目を細めている城之内の顔をまじまじと見遣る。
実のところ、電話口であまりにも呆気なく「頑張れよ」と告げられたことが気に掛かって作業に集中出来ず、早々に引き上げてきた海馬である。はにかむような笑みと共に告げられたその台詞は少なからず衝撃的であり、思わずぱちぱちと瞬きを繰り返した。
息を呑んだ気配に気付いたのか、目前の犬は「ん?」と勝ち誇った顔で首を傾げている。
(馬鹿犬め…)
心内で呆れ果てたように溜息を吐いた海馬は、しかし僅かに口元を綻ばせながら、不安定な肘掛けの上にゆっくりと腰を下ろした。
おもむろに手を持ち上げ、先刻手酷く引っ張ったばかりの髪をくしゃりと掻き混ぜると、何事かと警戒していた城之内がぽかんと間抜けに口を開ける。徐々に頬が赤く染まりだしたのも気の所為ではないだろう。自分が行為の時以外でこんな風に穏やかに彼に触れたことなど、ただの一度もないのだから。
「ならば貴様は、俺が自ら貴様を呼びつける時がどういう時か、気付いているか」
「へっ?」
くるりと指先で巻き取られた自身の髪を呆然と見つめていた城之内は、悪戯めいた笑みを浮かべながらのその問いに慌てたように視線を戻した。緊張しきった一連の仕草が可笑しかったのか、それとも余程機嫌がいいのか、海馬はくつりと小さく喉を鳴らして再び頭を撫でてくる。
何だこれは。一体何が起きている。
「精々悩め、馬鹿犬」
ちゅ、と小さな音を立ててこめかみに口吻けられ、城之内は耳まで赤くなった。
後日。
「兄サマがお前を呼ぶ時? 『疲れたから犬を呼べ』ってのは良く聞くけど」
思わず絶句してぽかんと口を開けた城之内の耳に、「だから甘やかしすぎだって言っただろ」と呆れ混じりの声が届く。
返す言葉もないとは正にこのことだ。
+ END +

さか様リクエストありがとうございました!
海←城風味がお好きとのことでしたので、ちょっと切なチックテイストでいこうと思っていたのですが、何だかラストが激甘に…。
予定から少し外れてしまいましたが、少しでも気に入って頂ければ幸いです。
■ 2008.11.10 ■