判断基準

 子供は蹲っていた。
 声は出さない。涙も出ない。
 遠く聖歌が聞こえる中、ただ己の腹を蹴り飛ばす父親の足をぼうっと眺めている。
 やめて、と妹が泣いていた。それをあやす母親の声。


 やめて やめて おにいちゃんがしんじゃう



 大丈夫だと笑える自信は無かったから、彼女を連れ出してくれた母親に少しだけ感謝した。
 酒瓶が倒れる音。
 ひしゃげた父の怒鳴り声。
 甘えるんじゃねぇ、プレゼントなんざあるもんかと騒がしく、泣き叫ぶような割れ声。
 その声に確かな焦りを感じるから、きっと自分は動けないのだ。
 世間が幸せであるからいけない。そうでない者たちはただ焦燥を募らせ、無理に自分も幸せなふりをしてしまう。
 失敗してはまた焦り、自身への憤りは次第に外へと向いていく。
 それを一身に受けることになど、もう慣れた。
 だから動かない。子供の癇癪のようなもの、ただのやつあたりだ。
 大人しくしてさえいれば時は早く過ぎる。
 何もせず、…息さえもしなくなればもっと楽になれるだろう。

 心が。





「…………」
 目が覚めて。
 身を起こすことすらしないまま、海馬はじっと天蓋を見つめていた。
 分厚い遮光カーテンの隙間から漏れてくる朝の陽は弱く、視界はとても十分ではない。
 鮮やかな赤を湛えている筈の天蓋はどす黒く、夢の中で目を閉じたあの瞬間のようだった。

 『今度こそ死ぬか、まだ平気か、目ェ閉じた時の色で考えてたんだ。
 暗くなったらセーフ。真っ赤だったらアウト、ってな。
 濃い赤茶に見えた時もあったけどどうにか生きてたし。
 案外俺って頑丈、な?』


 笑いながら淡々と語られた過去にこうまで影響されるとは思わなかった。聞き及んだだけのその光景が、やけにリアルに。
 海馬は目前に翳した手の平を暫し眺め、ゆるく拳を握り込む。
 目を瞑れば眉間にきつく縦皺が寄った。努めて大きく息を吸わねば肺が潰れてしまいそうだ。


 駄犬と言って憚らないあの犬と、何の気まぐれで話す気になったのか。
 人影の無くなった放課後の教室。せめて切りの良いところまで、と書類に目を通していた海馬は、ふと紙面に落ちた影に冷ややかな声を投げた。
「…何の用だ」
「別に。ムッズカシー顔してんなと思ってよ」
 軽く笑いながらガタンと前の席に、後ろを向いて腰掛ける。
 タチの悪い呼び出しから戻ってきたのだろう城之内は頬に小さな切り傷を負い、制服にも僅かな皺が寄っていた。何人を相手にしたのかは知れないが、刃物を持ち出すような連中を相手にご苦労なことだと思う。
 海馬の机に顎を乗せて、上目遣いに見上げてくる様は餌を強請る子犬のよう。
 パタパタと揺れる尻尾が見えた気がして、海馬は露骨に顔を顰めた。
「何の真似だ。懐く相手を間違えるな」
「お前、クリスマスどうすんの?」
 …話が噛み合わない。
 言葉にチラリと視線を向ければ爛々と輝く琥珀の瞳。一体何だと言うのだろう。
 城之内の意図を全く理解出来ぬまま、海馬はかけていた細縁の眼鏡を外し、眉間を押さえた。珍しく噛み付いてこない犬への違和感にふぅ、と小さな溜息を吐く。
「仕事か?」
「答える必要はない」
 機嫌良く掛けられる声が何故だか不快だ。
 城之内はそんな素気もない海馬の様を小さく笑い、
「何だよ、夢も希望もアリマセンって顔だな。『稼ぎ時』とかそんな考えだけじゃ寂しすぎるぜシャチョーさん?」
 綺麗な曲線を描いた口唇でそう紡ぐ。だが吊り上ったそれは赤い筆で引いた作り物のようだ。
「…貴様には関係の無いことだ」
 訝しみながら睨み付けると、彼は大袈裟に肩を竦めて見せた。仕草の一つ一つがこんなにも腹立たしく映るのは、それをしている城之内自身が何らかの悪意を込めている所為だろう。きらりと夕日を弾く瞳は先刻から全く笑ってはいない。
 海馬はチッと小さく舌を打った。
 食えない男だと思う。普段の単純さは嘘ではないかと思うほど、こういう時の彼はまるで思考が読めない。逆に己の内をどこまでも見透かされているような気分になる。
「下らない問答に付き合っている暇はない」
 話しは終いだとばかりに席を立てば、くつくつと押し殺したような、明らかな侮蔑を込めた笑声が背に掛かった。
「ホント、寂しい奴だよな」
 振り向いた青い視線の先、くしゃりと前髪を掻き上げて俯いた城之内は、もう用はないとばかりにひらひらと手を振っている。
 口元に貼り付いたその笑みは自嘲に近いように思えて、海馬はふと足を止めた。
「貴様はどうするんだ」
「へ?」
 これ以上声が掛かるとは思っていなかったのか、うたた寝でもするかのように俯せかけた顔を上げて城之内は間の抜けた声を返す。
「どうって…クリスマスか?」
 問いに無言の肯定を示せば、彼は少し黙り込んだ後「あのよ、」と小さく声を発した。
「テメェの価値観はどうでもいいけどよ。モクバはまだ子供だろ?仕事にばっかかまけてねーでちゃんと一緒に過ごしてやれよな」
 な?ともう一度念を押して、恐らくはまた笑ったのだろう。オレンジ色の逆光で表情が上手く読めない。
 質問をはぐらかしたのは海馬もまた同じだったから、軽く目を眇めただけでそれ以上踏み込むことはしなかった。
 だが言われた台詞はそれこそ彼には関係の無いことだ。
「モクバはそれほど子供ではない」
「まーなぁ。サンタの夢なんてとっくに奪われちまってんだしな。でも、それなら余計にテメェがいてやらねェと。モクバにまで味気ないクリスマスを教え込む気かよ」
 子供は何も考えずに楽しんでいればいいと、不意に真剣味を増した口調に海馬は改めて城之内へと歩み寄った。
 椅子を引いて再び腰を下ろせば、澄んだ琥珀がぱちりと一つ瞬きをする。
「何だよ、お喋りでもする気になったのか?」
「あぁ」
 肘を付いて指を組み、素直にそう返してやれば益々以って目を瞠った。
 自分でも何の気紛れかと溜息が出たが、寂しがりな犬が無意識に耳を垂れるからいけない。どういうわけか頭を撫でてやりたくなるのだ。…これもまた気紛れには違いないが。
「…クリスマスってさ。家族で過ごしたり、カップルで過ごしたり、そーゆーもんだろ?朝になったら目ェ瞑ったまま枕元探って、綺麗にラッピングされたプレゼントにはしゃいだりするんだよな。そんな普通のクリスマスを、あいつにも過ごさせてやれよ」
 目を細めて笑う彼は常になく儚げに思えて。
 遠い昔を思い遣るような柔らかな表情。その口が語る当たり前の幸せは、けれど彼にとってはもう他人事でしかないのだ。
 白髭のサンタと赤鼻のトナカイ、ベルの音を響かせながら空を駆けるソリを夢見ていられた時はほんの僅かで、いつしかその日は一番の疫日になっていたのだと。
 少し迷う素振りを見せた後、城之内はカラリとした口調でそう告げた。
「俺の親父、暴力振るうわりに弱い人間でよ。駄目なんだよなぁ、幸せそうな奴とか見んの。自分がそうでない自覚でもあんのか、やたら拳振り回してこっちに当たってきやがる。だから俺は普通のクリスマスとか忘れちまったし、いつか貰ったプレゼントも捨てられちまった」
 何でもないことのように告げる城之内は、けれど真っ直ぐに海馬を見つめている。
「テメェも似たようなもんだったんじゃねェ?でなきゃモクバの寂しさに気付かねェわけねーもんな」
「…………」
 聖夜の温もりを覚えているなら、それを与えられない子供の辛さも解る筈だ。それが解らないのはその温もりを奪われて育った子供。
 こういうところばかり自分と似ているこの男は、他人事と割り切ることで思い出したのだろうか。自分には与えられないそれを、せめて身近な子供には満喫させてやろうと。
 海馬は何も言わず、これまで過ごしてきた幾年のその日を朧気に思い返した。
 クリスマス商戦だ何だと幼い頃に叩き込まれた夢の無い認識は決して望んだものではなかったが、甘やかな時は過ぎたのだと知っていた自分はさして苦ではなかった。
 だが一番望んでいた筈のモクバの笑顔は、どこか寂しさを滲ませていて。
 理由が解らない。裕福になり、傲慢な養父の影が消えさえすれば弟は幸せになれるのだと信じていた。その為にどれほど自分が粉骨してきたと思っているのかと、酷い八つ当たりで彼を傷付けたのはそう遠くは無い過去。
「…悩むなよ」
 ぽつりと、城之内が言った。その顔はいつの間にか机に伏せられている。
「俺だって、静香がどうしてあんなに悲しそうな顔するのか解らなかった。クリスマスの度に逃げ出したお袋と街を歩いて…プレゼントは無いけど二人で綺麗なものいっぱい見てきた筈なのに、帰って来たら泣くんだよ。じゃあ何の為に俺は湿った畳の上で血塗れになってんだ。少しでも笑ってて欲しくて親父を引き止めたのに、どうして涙でベタベタの顔で駆け寄ってくるんだよ、って」
 腕を枕にした彼の声はくぐもって聞き取り難い。けれど震えてはいないそれは淡々として、逆に胸を締め付ける。
 そして不意に鼻先を擽った覚えのある香りに、海馬は訝しげに眉根を寄せた。
 徐々に濃くなっていく鉄錆じみた香り。…血の匂いだ。
「城之内、」
「この前遊戯の店番に付き合ってたらさ。どっかの親が子供のプレゼント買いに来て。いいなぁと思ったんだ。羨ましいんじゃなくて、見てると何かこっちまで温かくなれるっつーか…」
 音を立てて立ち上がった海馬を、城之内は少し顔を傾けて見上げる。
「なぁ、お前の仕事ってそういうことだろ。自分じゃない誰かを幸せな気分に出来るって、凄いことだぜ?」
「喋るな…」
 この男は馬鹿だ。それが寂しいという感情なのだと、羨んでいるのだとどうして気付かない。
 尚も口を開こうとする彼を制して後ろへ回れば、青い制服にじっとりと滲んだ赤黒い染みを見つけた。そしてそれは見る間に広がっていく。
「…磯野、すぐに救急車を手配しろ」
「あ、それは勘弁。俺退学になっちまう」
 携帯を取り出した海馬にへらりと笑って城之内は告げた。校内で揉め事を起こしたなど、問題児の彼には致命的だ。
 だがそれが解っているなら何故、病院へ行かず教室になど戻ってきたのか。
「なぁ海馬…モクバは一番近いとこにいるじゃんか。大事な弟だろ。俺、お前とモクバのそんなあったかいとこも見てみたいぜ」
「城之内?」
 呆然とする海馬の目の前で、城之内の瞼がゆっくりと下がっていく。
 急に空気が冷えた気がして、硬直した海馬の指先がふるりと震えた。





 海馬は一つ息を吐いて身を起こした。
 パサリと目に掛かった前髪を掻き揚げて、冬の冷たい空気を肺に満たす。

 あの後、病院は嫌だと言い張る城之内の為に邸へと外科医を呼びつけた。幸い内臓に傷は付いておらず、安静にしていれば完治までそう日は掛からないとのこと。
 意識が戻った彼の元へ海馬が一度だけ赴いた時、彼は「悪い」と苦笑しながら言った。
 視界が赤かったから、もう駄目だと思ったと。
 だから諦めて教室へ転がり込んだ。一番安らげるのは家ではなくそこだったから。

『馬鹿か貴様は。夕日が透けて赤く見えたのだろう。そんな勘違いで命を落としたとなれば本当に救いようのない馬鹿犬だったな』
『仕方ねェだろ。昔から俺の判断基準はそこだったんだからよ』

 今も彼はこの邸の客間で眠っている。
 淡々と語られた判断基準。それを抱えて彼は生きる。本当に、彼の両親は嫌なプレゼントを贈ったものだ。
 へらへらと笑いながら語る口が憎らしくて、「笑うな」と言えば彼はただ不思議そうに首を傾げた。
 解っていない。自分が過去に何を切り捨てたのか。何を諦めたのか。
 まるでそれが当たり前のように自身に訪れる幸せを信じない。
 …海馬は顔を覆うようにして額を押さえた。
 夢に見た彼の絶望が、彼自身には理解出来なかったであろう孤独が酷く胸を締め付ける。
 遠いあの日、期待を切り捨て幸せを諦め、手にしたものは虚しくはないか?
 信じあえる仲間、大切な妹。それらは希望に満ちた未来へのピース。
 けれど幸せを信じない彼の未来はどこに繋がっているというのだろう。


「兄サマ?」
 コンコン、と控えめなノックが聞こえてきた。入れ、と促せばひょこりと覗く弟の顔。
「おはよう兄サマ。今日は随分ゆっくりだね」
 食事の準備が整っても顔を見せないことを心配して起こしに来たらしい。重いカーテンを左右に括り上げ、彼は満足気に手をはたく。
 ベッドを下りた海馬はそんなモクバの髪をくしゃりと撫でて、
「あぁ。今日は休みだからな」
「そうなんだ?…って、えぇっ!?」
 告げれば、大きな黒目がちの目が驚きにぱちぱちと瞬いた。子供らしいその仕草に笑いながら「本当だ」と強く告げてやる。
「でも兄サマ、今日はクリスマスだぜぃ。毎年すごく忙しいのに…」
「心配ない。流石に昨日は無理だったが、今日はゆっくりお前の相手をしてやれるぞ」
 優しい笑みで頭を撫でる大きな手。じんと胸を満たす温もりに、モクバは知らずほろりと涙を零していた。
「あ、あれ?ごめん兄サマ、オレ…っ」
 言葉が胸につかえて上手く出てこない。無理もないだろう。何年も、何年も、ただその言葉を待っていたのだ。失った遠いあの日のように、また穏やかな時を過ごしたいと。
 ゴシゴシと袖で目を擦るモクバの手を押さえ、海馬はその目線にまで膝を落とす。
「クリスマスに甘えられるのは子供の特権だ。今日は存分に甘えてくるといい」
 今までの分まで、と、言葉に出さずとも敏い弟は悟ったらしい。感極まったようにギュッと一度海馬の首にしがみ付いて、身を離した時には満面の笑みを浮かべていた。
「へへ…、じゃぁ思う存分ワガママ言わせて貰うぜぃ!」
「覚悟しておこう。それとあの犬も叩き起しておけ」
「城之内も?」
「あぁ。傷はもう良いのだろう?今年のクリスマスは弟と犬の愛護デーにする」
「酷いぜぃ兄サマ!それじゃオレも動物みたいだよ!」
 笑いながら兄の肩を突いて、モクバは元気良く駆け出した。
「先に食堂で待ってるぜぃ!城之内も起こしに行かなくちゃ!」
 パタパタと小さな足音が遠ざかる。
 何故だかとても…懐かしい気分だった。胸の奥がじんわりと暖かい。
 忘れた筈の温もりを、けれど別の誰かに与えることは出来る。

 『凄いことだぜ?』

「…あぁ、そうだな。だがそれは貴様にも出来ることだ」
 現に彼は自分にそれを与えた。思い出させた。
 今度は城之内自身が知る番だ。
 与え、そして返される好意がどれ程心地好いものか、どれ程の幸せをこの胸に齎すのか、彼も知らなくてはいけない。
 そしてその温もりで、昔のことなど忘れてしまえばいい。


 プレゼントはまだ用意していない。今日は三人で街を散策にでも出掛けようか。
 城之内の傷に障らないよう、ゆっくりと。
 冷たいシャツに袖を通しながら、海馬は薄く笑みを浮かべた。







+ END +




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すさまじく時期を外してしまいましたが、今更ながらクリスマス話。
ラストに至ってもくっついていない2人ですが、この後全力で社長が落としにかかることでしょう。
城が教室に戻ったのには実はもう一つ理由があって、呼び出しに応じた時に社長がまだ教室にいたからなのです。
最期に一言物申すつもりで戻ってきたのでした。ラ、ラブいかな…?

■ 2004.02.09 ■