anniversary1

 台風一過。梅雨らしからぬ抜けるような青空と、嵐の名残の広い水溜り。
 些か季節外れ気味の台風が童実野町を通過したのは、つい一昨日のことだ。
 その規模は大きく、最大瞬間風速は40メートルを越えたという。
 となれば被害が大きいのも当然で、街なかには未だ折れた木の枝や、醜く舞った塵芥が至る所に散らばっていた。
 そんな中、今日も今日とて城之内の早朝バイトは幕を開ける。
 左足をペダルに乗せ、右足で数回地を蹴ってからサドルに跨がると、年代物の自転車はその衰えを感じさせないほど力強く滑り出した。
 新聞を山積みにしている為スピードはそう出せないが、この先は暫くゆるい上り坂だ。最初の勢いがモノを言う。
 とは言えやはり嵐の翌々日とあって、進行方向には何処から飛んできたのかも知れないゴミが無数に散乱し、快走をことごとく阻んでくれた。中には割れた屋根瓦やブロック片まである。
 人に当たらなくて良かったよなぁ、と些か呑気に考えつつ、城之内はそれらの合間を縫って進むことに殊更意識を集中させた。
 そうしなければ、余計な方向に曲がっていく思考を止められそうになかったからだ。
「よっ…、と」
 片足で自転車を支え、丸めた新聞を間口の狭い郵便受けに押し込む。溜息と共に見上げた空の色は、無用な感傷を植え付けてくれた男の瞳に酷似していて――――
 ……気を抜くとすぐにそんなことを考えてしまう自分が嫌だ。





 その日、海馬コーポレーション本社ビルでは、新商品のプレゼンを兼ねた立食パーティーが開かれる予定だった。
 大々的とまではいかずとも、報道関係者も招くとなればそれなりの規模になる。当然、それに見合うだけの人手が必要だ。
 幸か不幸か、城之内はその担当となるKC御用達の人材派遣会社に、知人の代理として一時的に籍を置いていた。
 彼の本来のバイト先である居酒屋には、掛け持ちで他のバイトを入れているフリーターが何人かいる。代理を頼んできたのはその内の一人だ。
 聞けば彼の母親が倒れ、急遽実家に戻らねばならないのだという。
 バイト先にその旨を連絡してきた彼は、電話口に出た城之内に「この仕事だけは穴を開けたくない」と泣きついてきた。
 KC絡みとなれば時給は頗るに良い。ドタキャンすることで今後の仕事を貰えなくなるのを危惧したのだろう。
 城之内にしても、決して悪い話ではなかった。丁度父親の新たな借金が発覚して頭を抱えていたところであり、タイミング良く他のバイトも入っていない。
 となれば、多少思うところがあっても引き受けてしまうのが人情…というものだろう。

「でなきゃ誰があんな奴の下に就くか、よ…ッ!」

 徐々に強くなり始めた風を真っ向から受けながら、城之内は必死に自転車のペダルを踏んだ。
 嵐はすぐそこに迫っている。予定通りパーティーが行われるとは到底考えられない悪天候。
 だが中止の連絡が入らない以上、自己判断で安易に放棄してしまうのはあまりに無責任なことに思われた。特に今回は知人の「代理」という立場であり、下手をすれば彼の顔に泥を塗ることにもなりかねない。
 ひょっとすると仕事を引き受けた当人には連絡がいっているのかもしれないが、その相手に連絡先を教え損なっていた城之内には知りようもなく。
 律儀な彼は、無いとも言い切れない仕事を見送ることなど出来なかったのだ。
 今にして思えば何とも間抜けな話。
 いっそKCに直接電話、という手もあっただろうに、前日のバイト疲れが祟って寝過ごしてしまった彼にはそんな余裕すら残されていなかった。
 案の定、これから嵐だという日に客を招くことなど出来る筈もなく、パーティーは延期。
 定刻に会場入りしたバイト生は城之内ただ一人だった。



「フン…、鼠らしく水浴びか」
 準備だけは整えられていたレセプションホール。そこに立つ男の開口一番のそんな台詞に、城之内はがっくりと頭を垂れた。
 雨風の中必死に駆けつけてきた人間に向かって、それはないだろう。確かに今の自分は濡れ鼠と言うに相応しい姿だったが、その理由を突き詰めれば怒りも湧いてくる。
「しゃーねーだろ!外は台風なんだからよ!」
「ならば催しが中止されるのも当然だろう?考え無しにのこのこやってきておいて吠え掛かるとは、全く躾がなっていないな」
「人を犬扱いしてんじゃねェー!」
 小馬鹿にしたように腕組みをして見下ろしてくる青い瞳が、どうしようもなく不快だ。
 不快…なのだが。

 「うわ…っ!」
 「…そう言えば犬は雷鳴が苦手だったか?」

 ……どうやら妥協せねばならないらしい。
 どうあってもこの雷雨の中、彼の助けなしに引き返せよう筈もないのだから。




 つーか犬じゃねーっての。
 怯え様を好き勝手貶されていることに気付いたのは、抱え込んだ頭にタオルを被せられた時だった。
「バイト生が帰宅時に吹き飛ばされたなどとマスコミに書き立てられるのは御免だからな。仮眠室を貸してやる。泊まっていけ」
「へ…?」
 らしくない。
 そう思ったのは一瞬で、城之内は慌ててコクコクと頷きを返した。どうやらこの男は、自分が雷鳴を恐れているものと思ったらしい。
 実のところ本当に苦手なのはそれに伴う暗雲であり、そして何より停電が駄目なのだが、そこまで事細かに弱みを晒すこともないだろう。
 残っていた他の社員も泊り込むのだろうし、人の気配があれば幾分気が紛れるというものだ。…と、思っていたのだが。
「あれ?」
 ぐるりと視線を廻らせた城之内の目に映ったのは、一様に帰り支度を始めている社員たちの姿。
「え、何、泊まんのって俺だけ?」
「あぁ…そうなのか?」
 如何にも興味薄、と言った態で問う海馬に、社員は苦笑混じりのいらえを返す。

「子供が家で怯えておりますので…」

 ―――告げられた言葉に、ジクリと胸の奥が鈍く疼いた。
 泣く子をあやす為だけに、己の危険を顧みず帰路に着く。世の父親とは、こういうものなのか。
 何故か苛立たしい気持ちになりながら、城之内はふいと海馬に向き直る。
「テメーはどうすんだよ。…って、聞くまでもねーな」
「無論、帰宅する」
「なら俺も帰る」
「…………」
 低いその声音に、海馬は深々と溜息を吐いた。
 まるで責めるように睨み付けてくる琥珀色の瞳。額面通りではない思いがそこに見え隠れしている。
「何を拗ねている?」
「は?」
「屋敷に連れて行けとでも言うつもりか」
「…誰もンなこと言ってねーだろ」
 けれど近いことは思っていた。
 胸の内で小さく舌を打ち、城之内はそっと海馬から視線を逸らした。
 あんな台詞を聞かされた後で、名ばかりの父親が待つ家に、自分を帰すのか。
 理不尽な思いが頭の中を塗り潰していく。
 一人でここに残れる筈も無く、察しない海馬にも腹を立て、……だがそれが見当外れの八つ当たりであることも、解りすぎるほど解かりきっていたのだ。
「……悪い、カルシウム足りてねーみてェだわ、俺。帰るな」
「待て、」
 呼び止める声も聞かずに踵を返し、城之内は駆け足に近い早足でエントランスを抜けた。通用口の前まで来ると、強化硝子越しに外の酷い惨状が窺える。
 諦めればいいのにラッパ傘を翳して進むサラリーマン。豪快に吹き飛んでいくゴミや木の葉。叩きつける、滝のような雨。
「……うぁ」
「大自然の驚異、だな。とても自転車で帰れるような天候ではないぞ」
 いつの間にか横に立っていた海馬が半ば感心するような口調でそう漏らした。
「しかしこうまで酷くなっているとは…。多少時間を食いすぎたか」
「あ…」
 自分が時間を取らせた所為だろう、と城之内は気まずげに海馬を見る。自分さえのこのこ出て来なければ、もっと早く弟のもとへ帰ってやれた筈だ。
 誰かの為に帰る家。
 帰って来る者を待ち侘びる家。
 そのどちらもが自分には当てはまらず、待つ者と待たせる者の気持ちを推し量ることすら出来ない。そんな人間がこれ以上彼を引き止めるような真似をしてはならない。
「マジで悪かった。直ぐ帰っから、テメェも早くモクバを安心させてやれよ」
「だから待てと言っているだろう凡骨め」
 いそいそと通用口の戸に手を掛けた城之内の襟首を強く引き、海馬は「ぐえっ」と大袈裟に咳き込んだ彼の頭に再びタオルを被せ直した。
「今夜は、俺もここに泊まる」
「なっ…!?」
 思い掛けない台詞に城之内はバッと顔を上げた。
「何言ってんだ、モクバが心配して待ってんだぞ!?早く…」
「こんな中を帰ると言えば余計心配するわ、馬鹿者が」
「っ…、それは…」
 絶句する城之内の前で事も無げに携帯を取り出した海馬は、モクバに連絡でもする気なのだろう。無表情にボタンを操作し始める。


 ―――何だよ。


 城之内の胸の内で、ざわりと黒い影がさざめいた。
 握り締めた拳が細かに震える。


 帰る家があるくせに、
 待っている人がいるくせに、

 …帰らないって?


「あぁそうかよ…、でも俺は帰るからな!!」
 突如大声を上げた彼を、海馬が驚きに満ちた表情で見遣った。
 城之内の肩が大きく上下する。丸く見開かれた青い瞳が、激昂する自分の様をまじまじと見つめている。だが、バイトが無いのなら拘束される謂れは無い。風に吹き倒されようが、濡れて肺炎を起こそうが…彼には何ら関係ない筈だ。
 黒いものがドロドロと胸の内を這い回る。頭で解かっていても感情が納得しない。
 見たこともない、泣いているモクバの姿なんてものが脳裏に浮かび……そしてそれはやがて、幼い自分の姿へと重なっていくのだ。

 家に帰っては殴る父。
 けれどそれでも、帰らない母を待つように「待つ」ことになるのは辛すぎると、捨てられるのはもう嫌だと、不安と膝を小さな両腕で抱えて―――

 帰れるくせに。
 車を走らせれば済むことだろうに。
 モクバは一人で待っているのに。

「サイアク、だ…」
 俯いて、くしゃりと前髪を握りこんだ。
 最悪だ。…違うだろう、海馬は、そうではないのに。
 恐らくは自分の為に言ってくれたのだろうに、何を。
「何を自棄になっている」
「なってねェよ!テメェももう帰れ!!」
 引き攣れた声でそう吐き捨て、城之内は通用口の取っ手を一気に引いた。
 外は嵐。開かれた硝子の扉に容赦なく突風が吹き付ける。
「う、わ…っ」
「城之内!!」



 ガシャァァン!!




「……、あ…」
 ―――…気付けば、強く、自分を包み込む腕がそこに在った。
 瞬きをする一瞬の間の出来事。
 目の前には閉ざされた扉と、その直ぐ外に叩き落されたトタン板の残骸。赤茶けた錆の色を目にするなり、頭に昇っていた血の気がざあっと引いていった。
 自分を包む腕とは反対の手でこの戸を閉めた男の顔を、恐る恐る振り仰ぐ。
「外に出れば…首が掻き切れていたかもしれんな」
 青い眼差しが、子供に言い聞かせるようにじっとこちらの顔を見下ろしていた。
 飛んできたトタン板の勢いは、強化硝子にヒビを入れるほど。人の柔肌など簡単に切り裂くに違いない。この腕が抱き止めなければ、自分は今頃この硝子を赤く染めていたことだろう。
「まだ、生身で帰りたいか?」
 言葉に、城之内は呆然としたまま首を振った。だがそれは単に恐怖からというだけではなく。

 嵐の脅威から自分を守る強い腕。
 …自分には、一生縁の無いものだと思っていた。

「まったく…後先考えずに飛び出すからだ、馬鹿犬が」
「……、あぁ」
 素直に頷いた城之内に、海馬は訝しげに眉根を寄せる。
 けれど包み込む腕が急に離れることはない。
 温もりが齎す安心感に、涙が出そうだった。





 チリチリと、止め具の緩い自転車のベルが涼やかな音を零している。
 最後の朝刊を郵便受けに放り込み、城之内はもう大分薄くなった空の色を見上げていた。
 朝焼けの後の、深い青。それはあの男の瞳に良く似ていたけれど、明るく染め上げられた今の空は、もうその面影を映してはいない。
 それを少し残念に思ってしまう自分は相当重症で、最悪だったのは天気ではなくやはり自分の思考だなと、城之内の口からは溜息ばかりが零れていた。


 あの後、通された仮眠室で海馬まで横になったのには驚いたが、社長室への直通エレベーターが落雷の影響で上手く作動しないのだと聞いた。
 台風はいよいよ酷くなってきたようで、完全防音の社内にまで轟々と風の音が…正確には震動が響いてくる。
 それでも、そんな中でも帰って行った父親たちは、本当に立派だ。
 そうなれば気になるのはやはりモクバのことで。
 念押しのように大丈夫なのかと問えば、もっと手の掛かる犬がここにいるだろうと返された。
 …唖然とする。
 やはり自分の為だったのかと申し訳なく思い、けれど少し感動して、寝返りを打った背中越しに「サンキュ」と小さく呟いた。


 それからずっと、あの夜のことを思い返している。
 嵐は呆気無く去って行ったのに、胸の中の風は未だざわざわと吹き荒れたままだ。
 意外な一面…だったのか、それとも「やはり」と確信して胸が騒いだのかは知れない。
 けれどあの夜の海馬は、唯一に思えたのだ。
 守り、傷付くことに慣れた腕と、守られることに慣れない心。同じそれを持っているくせに、自分にもその腕を差し伸べてくれる、唯一。
 だから自分もそう在りたいだなんて。

 あの男の、そんな唯一になれればいいだなんて。

 たった一晩で塗り替えられてしまった思いにそっと笑みを零して、城之内はざわめく胸を強く手の平で押さえ付けた。





 密やかに胸に刻まれた、アニバーサリー。








+ END +




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■ 2003.06.27 ■


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