犬が足跡を残して行った
嵐に濡れ、泥だらけの身体で上がりこんで
ベタベタと幾つもの足跡を

人の心に

無遠慮に残し、あっさりと去って行った
それはもう酷く遠く思える日。

anniversary2

 その日は雨だった。

 気付けば書類から目を逸らし、窓の外に気を遣っている自分がいる。
 海馬はそんな自身の行動に暫し眉を顰め、溜息と共に再び文字の羅列へと視線を戻した。
 雨の降る日は決まって思い出す、濡れそぼった蜜色の髪。
 普段は煩く噛み付いてくるだけだった野良犬が、あの嵐の日は珍しく弱さを垣間見せていた。
 モクバの元に帰らず、社のビルに留まることを決めたあの時。
 睨みつけてきた強い琥珀色の眼差しが、今も思考を停止させる。


 『あぁそうかよ…、でも俺は帰るからな!!』



 完全防音の社内。
 聞こえない筈の雨の音に苛立って、海馬はとうとう手にしていた書類をばさりと投げ捨てた。紙が机上を滑る音すら耳障りだ。気に入らない。
 ―――そう、何もかもが、気に入らなかった。
 あの日のことを無意識に反芻してしまう自分も、そうさせてしまうあの男の存在も。あの夜に関わる全てが煩わしい。

 抱き止めた冷たい身体は小さく震えていた。
 あれは本当に、自身に起こり得た惨劇への恐怖からだけだったのか。
 この腕の中で安堵の息を吐いた彼をもっと強く抱擁してやりたいと、一瞬でも思ってしまった自分は何を血迷っていたのか。
 思考がおかしい。その自覚もある。
 これ以上考えることは危険だと、海馬は眼鏡を外した目元を揉み解すように強く押さえた。


 他人の領域にずぶ濡れた身で踏み込んでおいて、後始末も無く。
 ……いい度胸だ。


 決して穏やかとは言えぬ視線で、海馬は今はそこに居ない人物をきつく睨み据える。
 内線のボタンを押せば直ぐに返る秘書の声。
「登校する。そうだ、これからだ。直ぐに車を回せ」
 受話器を置いた海馬の脳裏に過ぎるのは、あの夜、脆くも強い輝きを見せつけた琥珀の瞳と、蜜色の髪。腕に感じ取った早い鼓動。
 放置していてもこの不可解な焦燥は止むことがない。ならば打って出るのが己のやり方だ。
 デスクの惨状もそのままに、教科書が一冊も入っていないジェラルミンケースを手にした海馬は、足早に社長室を後にした。


 『…サンキュ』



 背中越しに小さく響いた声。
 泣き出しそうに震えたそれを抱き締めて掻き消してやりたい、などと―――全くどうかしていたのだ。
 これからそれを証明しに行く。
 …決して、あの犬の頭を撫でに行くわけではない。
 言い聞かせるように逡巡して、海馬はざわつく胸元を皺になるほどきつく握り締めた。




 本当は停電の中でも止まっていなかったエレベーター。
 寝心地の良いベッドを捨てて彼の傍らで眠りに就いたのは、何故?





 胸を焦がす感情の名を彼が知るまで、あと一時間。








+ END +




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5000hit突破記念!予告していた「anniversary」の社長編です。
社長のこの様子だと、自分を見て赤面する城を目にした途端、しっかり抱き締めてしまいそうですね。

■ 2003.09.05 ■