- 社長BD企画 6日目 -

10/25 22:10


 愚かな犬だ。
 会うたび牙を剥いて吠え掛かってくるくせに、ぱたぱたと揺れる尾を止めることも出来ない。
 睨み付ける視線にも以前ほどの険はなく、けれどこちらから手を伸ばせば驚いて逃げていく、臆病な犬だった。

 ―――自分はあれを、どうしたいのだろう。



 結局、海馬が帰国したのは予定より数時間遅れてのことだった。
 空港からヘリに乗って、社に戻ったのが二十二時ジャスト。今はそれから十分ほどが経過し、日本時間に直した時計の針は一番美しいと言われる百二十度のV字を描いている。
(今日中、という点だけは守れたか)
 弾んだ弟の声を思い出して、海馬は微かな笑みを浮かべた。 …が、同時に彼の告げたある言葉までもが耳に蘇り、何とも複雑な気分になる。

『もしかしたらあいつ、帰国した兄サマに会いに行くかもしれないと思って』

 海馬はそっと目を伏せ、胸の痞えを吐き出すかのように深く吐息した。
 もし本当にあの犬が顔を出したなら、自分もいい加減覚悟を決めるべきだろう。
 突き放すか、手に入れるか。最早考えるべくもないことのように思われたが、問題は自分より彼の方に多くあるのだ。それが解消されない限り、あの野良は大人しく飼われはしまい。
「社長、お車の用意が出来ました」
「分かった」
 会えるとすれば久方ぶりの再会だなと、悩みより期待めいた気持ちの方を強く感じながら海馬はゆっくりとエントランスを抜けた。



「よぉシャチョーサン、偶然だな」
 言い終えて、城之内はくしゅんと小さなくしゃみをした。反動でくっと窄まった肩に、海馬はほとほと呆れ果てた視線を送る。
 丁度車に乗り込もうとしたところで声を掛けてきた彼は、こんな時間であるにも拘らず青い学ラン姿だった。いつものように挑発的な笑みを浮かべてはいるものの、その口唇は夜の急な冷え込みの所為で少しばかり色を失っている。
(馬鹿が…)
 ちっと舌を打ちながらSPに先に乗っているよう促した海馬は、
「いつからそこにいた」
 改めて向き直った城之内へと苛立ちも露に問い掛けた。きょとんと目を瞠る様が白々しいことこの上ない。
「へ?」
「わざわざ待ち伏せて捕まえることを偶然とは言わん。そんなに冷えきるまで、一体何時間立っていた」
 反論を許さない口調で詰問すると、迫力に負けた城之内が渋々と口を開く。
「五時間…」
「馬鹿が!」
 間髪入れず響いた怒声に、薄い肩がびくりと揺れた。
 呆れを通り越した怒りに額を押さえながら、海馬はハァ、とわざとらしい溜め息を吐く。
 五時間ということは、学校から真っ直ぐここへ来たということか。自分の帰宅時間が分からなかったとはいえ、無計画にも程がある。万が一帰国が延期にでもなっていたらどうするつもりだったのか。
「…悪かったよ、気持ち悪ィ真似して」
 だがあからさまな不機嫌オーラを向けられた城之内は、何を勘違いしたのかそんなことを言い始めた。体裁悪そうに俯いていた顔を上げ、口元にニッと悪戯めいた笑み浮かべる。
「折角モクバが面白ェこと教えてくれたんだ。今日はバイトもなくて暇だったし、揶揄いに来なきゃ嘘だろ」
 何たって人外サンの誕生日だもんなー、と可笑しそうに喉を鳴らしながら、城之内は思い出したようにポケットの中を探り始めた。無言で見守る海馬の胸に、取り出したくしゃくしゃの紙袋をぐいと押し付ける。
「それ、ハンドマッサージ用のボールな。自分用に買ったんだけど、使わねーからやるよ。パソコンやってっと結構手とか疲れるんじゃねェ?」
「…………」
 どこか満足げに笑う彼の顔をじっと見つめ、海馬は軽いその包みに片手を添えた。
「…貴様はそれでいいのか」
「何が?…ッ!」
 小首を傾げる城之内の腕を空いた手で握り込み、その顔が痛みに歪むのも構わず言い募る。
「俺はもう、これまでのように曖昧に済ませてやる気はないぞ」
「い…っ」
 何の話だと言いかけた城之内は、けれど骨の軋むようなその痛みに思わず歯を食いしばった。額にじわりと冷たい汗が浮かぶ。
「ってェよ、この馬鹿力…!」
 こんなにも力を込められては、指を外した後も痣が残ってしまうだろう。それ以前に骨が折れるかもしれない。
 だがそんな状況でありながらも、彼は責めるように自分を射る海馬の瞳から目が離せなかった。
「何…怒ってんだよ」
 普段向けられたことのない真剣な眼差しが、居た堪れなさを増長させる。先程までの浮かれた気持ちが音を立てて萎んでいくようだった。
 喜ばれるとは夢に思っていなかったが、こうまで嫌がられるのも予想外だ。
「ほら、いい加減放せって。モクバが家で待ってんだろ」
「貴様も待っていただろう」
「っ、馬鹿かテメェ、俺のはただの嫌がらせだからいいんだよ!」
 告げて、城之内は堪えかねたようにふいと顔を背けた。男から見えぬよう噛み締めた口唇には薄っすらと血が滲んでいる。
 嫌がらせ、と罵られることは予想していても、自ら口にすることになるとは思っていなかった。声が震えなかっただけ表彰モノだ。掴まれた腕よりも胸の内の方が余程痛い。
(あれ、でもそれっておかしくねェか…)
 ふと過ぎった違和感に、城之内は心内で首を捻った。
 自分はこの男に対して何も望んではいなかった筈だ。優しい言葉を掛けられることも、穏やかな瞳を向けられることも。
 だというのに、何故今のこの状況に打ちのめされなければならないのだろう。
「…馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、正真正銘救いようのない大馬鹿だな貴様は」
 困惑気味な彼の顔を呆れた様子で見下ろし、海馬は本日もう何度目になるか分からない溜息を深々と吐き出した。
「言ってみろ凡骨。俺に、どうして欲しい」
「どう、って…」
 言葉の真意を測りかね、城之内はただ訝しげな声を漏らす。
「フン。貴様、普段は腹立たしいほど諦めが悪いくせに、俺に対しては端から勝負を捨てていただろう。尻尾を振って物欲しげに寄ってきておきながら、どうされたいのかは口にしようともせん。俺はそれが気に食わんと言っている。要望があるなら聞いてやるから、今ここで言ってみるがいい」
「なっ…誰がいつテメェに尻尾振ったりなんかしたよ!」
「いつもだな。小煩く吠え掛かってくるわりに随分と楽しそうじゃないか。何が原因で懐かれたのかと訝しみもしたが…まぁそれはどうでもいい」
 掴んでいた腕を解放し、殊更静かな口調で告げた自分の顔を城之内は半ば唖然として見つめていた。その瞳に普段ほどの覇気が感じられないのは、外灯の無機質な明かりの所為ばかりではないだろう。
(…馬鹿な犬だ)
 海馬は視線を逸らすことはせず、ただゆるりと目を眇めた。
 如何に他人の感情の機微に疎い自分とて、あれほど毛嫌されていたものが懐いてくれば勘付かない筈がない。噛み付くことで誤魔化していたつもりなのだろうが、生憎と悪意を向けられることには慣れていた。それが本物の悪意なのかそうでないのかくらいすぐに判る。
 これまで敢えて指摘しなかったのは、そんな彼の感情に引き摺られている自分を自覚したくなかったからだ。あれほど蔑んでいた者を傍に置きたいと思うなど、一時の気の迷いだと思っていたかった。
 だがモクバが軽々と自分たちの心情を見抜いたように、自分では不可解だと感じていたことも端から見れば呆れるほど単純なものだったのかもしれない。
「どうした、犬だから口は利けんとでも言うつもりか?」
 揶揄めいた口調で促すと、呆けたまま黙り込んでいた彼の目に力が戻ってくる。
「テメェこそ…俺に何を言わせたいんだよ」
 喉奥から絞り出したようなその声は、彼の心の乱れを表すように揺れていた。
 海馬は切れ長の目を細め、微かに口角を持ち上げると、

「好きだ」
「……………は?」
「好きだ、傍に置け。…そう言ってみろ」

 不遜な態度はそのままにきっぱりと告げ、するりと彼の頬を撫でた。
「素直に言えば、叶えてやる」
 手を追うように顔を近付け、冷たい耳の端に息を吹きかけるようにして囁くと、我に返った城之内が目を据わらせて拳を振り上げる。
 ガッ、と鈍い音がした。
 僅かによろめいただけで踏みとどまった海馬は、切れた口の端を拭いながらクッと小さく喉を鳴らす。
「野良犬め…」
「何だよ…何なんだよテメェ。俺は何もない方が楽なんだよ。最初から何も欲しがらなけりゃ、手に入らなくて嘆くこともない。テメェのこと考えてられるだけで良かったのに、今更余計なこと言って掻き乱してんじゃねェよ!」
「フン、だから貴様は馬鹿だと言うんだ。人間の抱く感情に、欲の伴わないものなどあるものか」
 毛を逆立てた猫のように威嚇してくる男に、海馬は殴られるのを覚悟で再び手を伸ばした。城之内の視線が迷うようにその手と海馬の顔を行き来する。
 言葉の意味を考えてでもいるのだろう。指先が髪に触れるより前に叩き落とそうと構えられた手は、中途半端な高さに持ち上げられたまま静止していた。
「感情は連鎖するものだ。気に入らんと感じればそれを遠ざけたいと思い、気に入ったものは手に入れたいと思う。好いた相手は傍に置きたい、邪魔者は排除したい。ごく自然な流れだろう。それを無理に第一段階で押し留めようとするから、本当は欲しがっているものをむざむざ殴り飛ばすようなことになるんだ」
「…………」
 横髪を梳くように差し入れられた指に、城之内は観念したように息を吐いてゆるゆると腕を下ろした。その手首には先刻海馬が掴んだ際に出来た指の痕が赤黒く浮かび上がっている。
 それをずっと残しておきたいと思うのも、この男が好きだ、という気持ちから発祥した欲の一つなのだろう。
 だがその一つを認めてしまえば、これまで押し殺してきた望みの数々が際限なく溢れ出してしまう。…叶う筈もない望みが。
「俺が欲しいのだろう、城之内」
 素直に言えばくれてやるぞ、と、いっそ腹立たしいほどの余裕を滲ませて言い放った男に、城之内は瞬間殺意すら抱いた。頭の中はぐしゃぐしゃになっているというのに、この男の声だけは真っ直ぐに落ちてくるからいけない。揶揄われているだけだと言い聞かせても、頷いてしまいたくなるのだ。
「…いや、この言い方は卑怯だな」
 だが、今にもその襟元に掴みかかろうとしていた彼は、男が漏らしたそんな言葉に上げかけた腕を再び押し留めた。
「卑怯…?」
「同じ感情を抱えていながら、貴様にだけ言わせようとするのは卑怯だろう」
「………へ?」
 他の一切の音を遮断した耳が、真摯に響くその声を一言一句漏らさず拾い上げる。薄闇の所為でいつもより深く濃く見える青い瞳が、真っ直ぐに自分の目の奥を見据えていた。
 胸の内の不安を見透かすかのように。
「訂正してやる。この俺が貴様のような駄犬を欲しがっているのだ。大人しく俺のものになれ」

 城之内はぽかんと口を開けたまま、ゆっくりと自分を抱きしめてくる男の温もりを冷えた身体全体で感じていた。




「ところで先刻から気になっていたんだが」
「あン?」
 呆けた状態のままあれよあれよという間に車に乗せられていた城之内は、海馬に腕を掴まれた時も、殴る時も、抱きしめられた時さえ手放さなかった左手の紙袋を指されて「あぁ」と小さく相槌を打った。
「これは俺の食料。…にするつもりだった、テメェの誕生日ケーキ」
 照れたようにそっぽを向いて返された台詞に、海馬はぱちりと大きく瞬きをする。言われて見れば袋の口からちらちらと見える白い箱はケーキ箱のようでもあるが…。
「…やけに小さいな」
「るせェ、ちゃんとしたのはモクバが用意してくれんだろ。それに、テメェが一緒に食ってくれる確率なんてすげー低いと思ってたし。これ以上兄サマ拘束してモクバに寂しい思いさせるわけにもいかねーから、これは家に帰ってから一人で食おうって…、…おい」
 言葉途中でこめかみの辺りに口吻けられ、城之内は耳の端まで真っ赤になった。恥ずかしいことをするなと吠え掛かる様にクッと口の端を歪めて、海馬は胸ポケットから取り出したくしゃくしゃの紙袋にも軽く口唇を押し当てる。
「誕生日など気に掛けるようなものではないと思っていたが…悪くないな」
 目を細めて満足げに呟く横顔に城之内は小さく苦笑する。
「…毎年、祝わせろよな」
「当然だ。貴様の誕生日も嫌と言うほど祝い尽くしてやる」
 無茶苦茶なことを言いながら、赤い痣の残る右手に重ねられる大きな手の平。城之内の胸にここ数日の酷く浮かれた気持ちが蘇ってきた。
 こんな気持ちをきっと、幸せと呼ぶのだろう。

「誕生日おめでとうな、海馬。テメェが生まれてきてくれてすげー嬉しいぜ」

 心から告げた言葉に海馬は大きく目を瞠り、手にした紙袋をぽとりと取り落とす。
 彼の余裕に振り回されっぱなしだった城之内は「してやったり」とばかりにパチンと指を鳴らした。


 The end.
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社長BD企画/6日連続拍手更新
■ 2006.10.29 ■

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