- 社長BD企画 5日目 -
10/24
『兄サマ、明日は帰れるんだよね?』
仕事上の報告を一通り終えた弟は、些か遠慮がちにそう尋ねてきた。
「あぁ、この分なら予定通り夕方には戻れそうだが…どうした」
何かあったのかと問い返しながら、海馬は形の良い眉を微かに寄せる。
弟がこんな風に念を押してくるのは珍しいことで、緊急性はないにしろ何か問題が起きているのではと思わず声が低くなった。今回の渡米はあまりにも急すぎて、半端に放り出してきた仕事が幾つもある。
だがモクバはそんな彼の言葉を慌てて否定し、
『折角の誕生日だし、ちゃんと兄サマの顔を見てお祝いしたいだけなんだ。本当はそっちで少し休んできた方が良いんだろうけど…』
それじゃ間に合わないから、と、徐々に語尾を弱めながら言い募る。
海馬はそれに思わず目を瞠り、数度瞬きを繰り返した。弟のたっての願いということで休みを取ることにはしていたが、彼自身はその日を祝う必然性などまるで感じていなかったのだ。
モクバが起きているうちに帰れば十分、少し日を跨ぐくらい構わないだろうと考えていたのだが、どうやらそれでは不味いらしい。兄思いの彼のこと、何かしら大袈裟なことを計画していたのかもしれない。
「解った。出来るだけ早く帰るようにしよう」
苦笑交じりにそう告げてやると、受話器の向こうの空気がパッと明るくなった。きらきらと目を輝かせる弟の顔が目に浮かぶようで、胸の中に温かいものが広がっていく。
『ホント?我が儘言ってごめんね兄サマ』
「構わん。むしろお前くらいの年ならもっと無理を言うべきだろう。俺はそういうところに疎いらしいからな。言われるまで気付いてやれんことも多いが…弟のささやかな願いすら叶えられんほどの甲斐性なしに成り下がった覚えはないぞ」
言えば、「兄サマは甲斐性ナシなんかじゃないぜぃ!」とやけに力んで告げてくる。海馬は常になく目許を和らげ、くつくつと喉を鳴らしながら椅子の背凭れに寄り掛かった。
これから訪れる人物との打ち合わせが済めば、こちらに来た目的は完遂される。予定していたものより便を早めて少しでも早く帰国することにしよう。折角の弟の気遣いを無駄にするわけにはいかない。
―――だがそんな風に考えを巡らせていた彼は、ややあっておずおずと告げられた弟の言葉に大きく目を瞠ることになった。
『あのね兄サマ、城之内のことどう思う?』
「何…?」
あまりに唐突すぎる問い掛けに、思わず訝しげな声が漏れた。
(何故ここでその名前が出てくる)
内心の動揺を押し隠すように受話器を握り締め、海馬は浮かんできた粗野な男の顔を脳裏から振り払う。
「…あの犬がどうした」
問い返した声は先刻までと違い、普段の平坦なものヘと戻っていた。その切り替えのわざとらしさに、聡い弟は気付いただろうか。
『あいつが背中押してくれたんだ。兄サマはちゃんと俺のこと考えてくれてる筈だから、遠慮なんかせずにぶつかってみろって』
「フン…駄犬もたまには役に立つということか」
『うん。それで、もしかしたらあいつ、帰国した兄サマに会いに行くかもしれないと思って』
「何だと?」
鼻で笑うことで少しばかり余裕を取り戻せた気になっていた海馬は、駄目押しのように告げられたその言葉に思わず椅子から腰を浮かしかけた。
『兄サマの誕生日が明日だって教えちゃったんだ。だからあいつもお祝いに来ると思う』
そういうところ律儀だから、と呟く弟の声は明らかに弾んでいる。
「モクバ…」
『兄サマがあいつのこと嫌ってるのは解ってるけど、もし来たら、あんまり冷たくしないでやってね。今回は俺、勇気を貰った恩があるからさ』
咎めるような声も無視し、彼は意固地に最後まで言い切った。…これは、いよいよ見抜かれたと思っていいだろう。
「……善処しよう」
『うん! それじゃ、気を付けて帰って来てね兄サマ』
無邪気な声と共に、通話が切れる。
海馬はその後も暫し受話器を握り締め、眉根を寄せていた。ふぅ、と重い溜息が漏れる。
「……潮時か」
ぽつりと漏れた言葉は、今やどこへも通じていない受話器へと吸い込まれていった。
to be continued...