―――手を 放さないで
願ったのはただそれだけのことだったのに
「……、…」
小さく漏れた呼び名は雨音に消され
潜り込んだ薄い布団は 湿気で酷く冷たかった
rainy,shiny day
「大丈夫? 城之内くん。顔真っ赤だよ」
そう言って顔を覗き込まれたのは、一時限目の休み時間。
火照る頬を机に押し付けてダウンしていた城之内は、心配げなその声にゆうるりと視線を廻らせた。
「あー、心配ねーよ。ヘッキヘッキ。…ってぇ!!」
「平気そうじゃないから言ってるのよ。いい加減保健室行きなさいよね」
ヘラリと笑う後頭部に、小気味良い平手が炸裂する。
「杏子、テメェ…、っ!」
「こら、病人が急に立ち上がんな」
クラリと眩暈を起こした身体をすかさず本田が支えに入った。
溜息。
「お前な…、強がるのも大概にしないとホントに倒れるぞ?」
「誰が強がってんだよ。こんぐらい平気だっての」
拗ねた子供のように口唇を尖らせ、眩暈の延長で視界をぐらぐらと揺らしながらまだそんなことを言ってみせる。
心配を掛けまいと気を使ってくれるのは嬉しいが、見るからにそれと解かるようでは痛々しいとしか言いようがない。
「いいからお前、帰れ。大体何でこんな時期に風邪なんかひいてんだよ」
「まぁ夏風邪はナントカがひくって言うしなー…」
「うっせーぞ御伽!」
怒鳴った所為で頭に響いたらしい城之内は、またしても机に撃沈していた。
言わんこっちゃない、と額を押さえたのはその場にいた全員。
余計なことを言うなと小突かれた御伽はひょい、と肩をすくめ、うつ伏せた城之内の額にそっと手を伸ばす。
と。
「………コレ、一人で帰れないと思うぜ」
「は?」
「ちょっと城之内! アンタ、何でこんな熱で学校来てるのよ!?」
同じく額に触れた杏子が青褪めながら悲鳴を上げる。
ぐったりとされるがままになっていた城之内は、しかし突然スポッと耳に入れられた冷たい感触に、ぎゃっ、と大袈裟に飛び上がった。
「あぁ危ないよ城之内くん〜。体温計が鼓膜突き刺しちゃうよ〜」
「やる前に言えよ! つーかンなとこで測んな!!」
貸せ! ともぎ取って脇に挟むこと約5分。にこにこと微笑む獏良が何故そんなものを常備していたのか、問い質す者は一人もいない。
城之内は取り出した体温計の水銀が指している目盛りを確認して……確認して……。
「?? 悪ぃ、視界が茹ってて見えねェわ」
「……だから帰れってのお前」
心底呆れたように呟きながら、本田は渡されたそれを何の気構えもなく覗き込んだ。
「…………おい獏良、この体温計壊れてっぞ」
「え〜。こういうのって壊れるものなのかなぁ?」
小首を傾げる獏良にそうだよな、と小さく呟き。
「ならおかしいのはテメーだ城之内! 何でこんな状態でうろうろしてやがる!」
「あ〜? 何だよ、大したことねーって。」
「本田くん、何度だったの!?」
慌てて覗き込む遊戯に、本田は無言で目盛りを指し示す。
「ヨッ…!?」
「あー、ヘッキヘッキ」
『まだ言うかーーー!!』
へらへらと笑って見せた城之内に、誤魔化されてやる者はもう一人もいなかった。
そんなこんなで強制退去を食らってしまった城之内は、途中で倒れないようにと付き添って来た本田の手によって、無理矢理布団に転がされていた。
自分の所為で授業をさぼらせるのは忍びない、などとらしくもない理由で追い返したものの、いざ独りになってみると退屈さがじわじわと募ってくる。
熱が高すぎる所為で身体の節々が痛み、寝付くことが出来ないのだ。
そして思い出したようにズキリと痛む頭。
仲間たちが騒ぐほどの熱ならば、この程度ではすまない筈。ならば恐らく症状が悪化するのは「これから」なのだろう。そう思うと億劫で仕方が無い。
今年の冬は、思わぬ贈り物のお陰であまり寒い思いをせずにすんだ。
当然風邪もひかずにすんだわけで、寒さなど微塵も感じなくなったこの季節に今更こんなことになるなど、考えてもみなかったのだ。
冬の外気から守ってくれたコート、手袋。そして誰かさんに腹立たしい肩書きを付けられてしまったマフラーは、大事に箪笥にしまってある。
「首輪だとか…、言ってたくせによ」
城之内は薄っぺらな布団の中で小さく身じろぎをした。
毛布も長袖もとうにしまいこんでしまっていた為、掛け布団の冷たさがむき出しの肌をじわじわと侵食していく。
シーツを掴む指先から段々と力が抜け、床に吸い込まれていきそうに潰れた身体が、ミシミシと嫌な軋みを上げていた。
(あーぁ…)
窓の外は快晴。……薄情なあの男の瞳の色。
霞む視界に一筋の飛行機雲が流れていく。
あの雲を連れて再びアメリカへと飛び立った男は、その後もちょくちょく戻ってきてはいたのだ。
だが、春になってパタリと、帰って来なくなった。
『春になったら別の首輪を買ってやる。それまではしっかりそれを巻いていろ』
「…嘘ばっかじゃねーか」
くつりと小さく苦笑を漏らし、どこまでも尊大な笑みを脳裏に思い描く。すると途端に、胸が苦しくなった。
熱の所為で精神が弱っているのだろう。でなければ、霞んでいただけの視界がこんなにも熱くなる筈が無い。
熱い、雫で、世界が歪むことなど有り得ないのだから。
「情けねー…」
持ち上げるのも億劫な腕で視界を覆い、城之内はスン、と鼻を啜り上げた。
首輪を与えるだけ与えておいて、自分のモノだと目印だけ残しておいて。
置き去りにしたまま、なのだ。
それは拾った子犬にミルクを与え、また同じ場所に戻す行為に似ている。
中途半端に手を出すのは残酷だと、解からないのだろうか、あの男は。
一度温もりに触れてしまえば、冷たい場所にはもう戻れない。その温もりから離されても、ぬるま湯に浸った意識は淋しさばかりを訴える。
―――手を、放さないでくれと。
「あーイテェ…。頭、ますます痛くなってきやがった…」
呼吸が辛い。眩暈が辛い。込み上げる様々な思いで、胸が苦しい。
力の入らない腕で、城之内は箪笥までじりじりと這って行った。引き出しを開ければ、直ぐ、見えるところに。
「……ぃ、ば…」
取り出した真っ白なマフラーをくしゃりと胸に抱き締め、城之内は再び布団に潜り込んだ。
切なく鳴く胸を叱咤する。
泣いても叫んでも戻らないものがあることを、自分は知っている筈だ。
十七の誕生日、仲間たちからコートを貰った。
最愛の妹からは手編みの手袋を。
思いがけない男からは、この―――
あの日、自分は此処にいてもいい証を沢山受け取った。
思いがけないその出来事に、一生分の幸せを感じたような気がした。
あの時はあんなにも嬉しかったのに、今は「あの時間さえなければ」なんて、どうしてこうも懐疑的なのだろう。
熱の所為でネガティブな思考は、止める者がいなければ何処までも沈み込んでいく。
ぽっかりとあいた闇に呑まれ、目を開けることが怖くなる。
こんなことではいけない。
こんな弱さは、嫌だ。
幸せだと笑える日々が一瞬の夢でもいい。
ならばそれを噛み締めて、忘れないように歩くから。
酷い耳鳴りに襲われ、城之内の意識は深い闇へと飲み込まれていった。
ル、ル、ル、と。
普段鳴ることの少ない電話が控えめに呼んでいる。
ゆうるりと重い目蓋を持ち上げた城之内は、汗で湿ったTシャツの感触に不快そうに身を捩り、けれど脱ぎ捨てる気力もなく鳴り続ける電話へと視線を泳がせた。
こんな時に、借金の督促の電話なら受けたくはない。だが時計に目をやると丁度学校が昼休みに差し掛かった頃で、遊戯が心配して掛けてきた可能性もあった。
迷った末、城之内はいつまでも鳴り止まない電話にそっと息を吐いて、ずるずると床を這うように近付いていった。
腹を擦る畳の感触に虚しさが込み上げる。台所と部屋の境にある電話までの距離が、酷く遠く感じられた。
もう、20コール目。
相手が遊戯ならば、遠慮して切っている筈のコール数。
けれど熱に浮かされた頭ではそこまで考えが廻らない。城之内は低い床からチェスト上の電話に必死で手を伸ばして…、
「あ、」
ガタン、と。
音を立てて受話器が床に滑り落ちた。
親機に繋がったままのコードがゆらゆらと揺れる様に、ふつふつと苛立ちが込み上げてくる。
どうして。
どうして、こんな目に。
「…し、もし…!」
ささくれた気持ちのまま声を出せば、喉が引き連れてヒュ、と音を立てた。
咳き込む間さえ腹立たしくて、何だか大声を上げて泣き出したい気分に陥ってしまう。
遣り切れない。どうしてこんなに惨めなんだ。
「…ンだよテメェ、イタ電か…!?」
応えのない受話器の向こうに、城之内は吐き捨てるように問いを投げた。
ガンガンと酷い頭痛がする。痺れた舌が上手く回らない。全ての不自由さが苛立ちに変わる。
「ぁあもう…! くそッ…、…んで…っ!」
ダンッ、と、力の入らない腕で床を殴りつけた。
こんなことではいけない。こんなことでは。
「クソ…ッ、くそ…」
理由もなく視界が滲む。息苦しさに窒息しそうだ。
だが。
『……、…之内?』
「!?」
―――切れ切れに響いたその声に、思わず息を止めた。
いつの間にか立ち込めた雲が、空を暗く覆っている。
薄暗く冷たい部屋の中で、受話器を握った手の平がじんじんと熱を持っていた。吐き出す息も荒い。
「海馬…?」
『熱が出たらしいな』
遊戯から聞いた、と、直ぐ耳元に懐かしい声。
「っ、テメ…、春には帰ってくるんじゃなかったのかよ…!」
『何だ、淋しかったのか?』
くつりと笑う気配は近い。けれど、遠い。
今の自分には、どこまでも果てしなく遠いものに思えた。
眩暈がする。
「っざ、けんな…!」
『城之内?』
「テメェが…、テメェが、余計なこと言いやがるから…!」
『春になったら』
歪む視界を自覚する前に、声が裏返った。
癇癪を起こしている自覚はある。これではまるで幼子のようだ。
「余計なモン、渡すから…っ」
『新しい首輪を』
――― 必ず 迎えに来るからね 克也
一瞬。
何か、とても古い記憶が思考を埋めた。
約束はいらない。
そんなものはいらないから、どうか、
行かないで
「…っ、」
受話器を持つ手とは反対の腕で、城之内はぎゅっと我が身を抱き締めた。
パタパタと、外は雨が降り出したようだ。窓硝子に弾ける雨粒が、何故か歪んで良く見えない。
つい先刻まで、そこに彼の瞳の色を眺めていたと思ったのに。
直ぐ傍にいるような気がしていたのに。
いつの間にか、誰も彼もいなくるのだ。気紛れな空と同じように。
『城之内』
「…………」
弾ける水音は自分の直ぐ近くにも聴こえてきて、床に落ちたそれを白く握り締めた拳でぐい、と拭った。
幸せはあまりに儚く、不安はいつも隣合わせ。
けれど、声が優しいのは、卑怯だ。
「…冗談、だぜ?」
何かを振り切るように、城之内は目を瞑った。
今はこの声だけでいい。
「はっ…、驚いたかよバカ社長。偶にはこんなシチュエーションも良いんじゃねーの」
『……馬鹿犬が』
どーせ、と舌を出す仕草は読まれていたのだろう、苦笑する気配が伝わってきた。
「お前、仕事頑張ってんだもんな。野良犬にかまけてるヒマなんかないってか?」
揶揄うように軽く笑えば憮然とした口調が返ってくる。
『馬鹿を言え。俺は飼い犬を手放した覚えなど更々無いぞ』
「ケッ、どーだかな。…ってか自分で犬犬言うのも虚しいよなぁ…」
受話器を握り締めたまま、コードが伸びるのも構わずゴロリと床に横になって。
引きずってきた布団を掻き寄せ、ただ彼の声に耳を傾ける。
具合はどうだ、と心配しているようなことを口にするから、笑って「平気だ」と答えてやった。
そんなわけがない。
けれど、見えないだろう? こんなにも遠い電話越しでは、じっとりと額に滲む脂汗も、自分がどんな顔をして話しているのかも、判らないだろう? いい気味だ。
犬はここで死に掛けてますよ。
誰かさんが手を放すから。
皮肉を言う気にもならない。
「…な、お前今すぐ帰って来いよ」
『無茶を言うな』
即答に城之内はケラケラと笑った。
期待などしてはいけない。出来るだけ痛みを感じないように、少しずつそれを理解していく。
幸せだった時間をありがとう、なんて、口にするには自分は弱くなりすぎた。
だから、つい本音が漏れたのだ。
「犬を放し飼いにするなんて、飼い主失格だぜ?」
あぁ…、この台詞に反応は要らない。
城之内は思わず口元を押さえた。何か温かいものがその手の上を伝っていったけれど、それすらも気付かないふりで。
鼻で笑われたら、今の自分に堪えられる余裕はないだろう。どうか軽く流して。
だが。
『無論だ。明日には帰る』
「……は?」
『聞こえなかったか? 明日、帰国すると言ったんだ』
「何で!!」
身を起こした勢いでズキリと鋭くこめかみが痛んだ。
『何故、とは? 貴様が熱を出したりなどするからだろう』
事も無げに言ってのける低い声に、城之内は唖然として受話器を取り落としかける。
「帰るって…、帰るって、お前仕事は?」
『モクバに任せる。貴様をあやす方が先だ』
随分淋しい思いをさせたようだからな、と嘯く、その口調が揶揄うだけのものなら躊躇わず電話を切ったのに。
この男は馬鹿だ。また自分から面倒事を背負い込んだ。
「手間の掛かる犬なんか飼うからだぜ…」
『手間だと思うなら、あの日会いに行ったりなどしなかった』
告げられた言葉に一際大きな雫が頬を伝う。首に巻いた季節外れのマフラーを握り締めて、城之内はくっと唇を噛んだ。
声が喉に詰まって息苦しい。
『……あまり強がりばかり言っていると窒息するぞ』
「煩ぇ…、テメェがそうさせたんだろうが」
『そうか? それは悪かったな』
悪びれもせず笑う男は、今度こそ揶揄するように低く笑った。
明日、目覚めたらそこにいてやるから安心して眠れと。
囁く声が、幸せ。
熱で軋む身体はガタガタなのに、痛いと鳴いていた胸だけは明日への期待に高まっていた。
相も変わらず頭は痛い。喉も少し掠れてヒュウヒュウと嫌な音がする。
けれど風邪は気の持ちようだと言うから、案外明日には吹き飛んでいるのかもしれない。
帰ってきたら精々尻尾を振って迎えてやろう。
だから早く、この手を取って欲しい。
放し飼いなんてつれないことは、もうこれ以上堪えられない。
いつも気に掛けて、いつも頭を撫でて。
手を取った以上、死ぬまで傍にいて。
決して綺麗でないその欲は限りなく―――けれどそれでいいのだと、馬鹿な飼い主が教え込むから。
自分は、精一杯で主人を癒そう。今流行りのアニマルセラピーとかいうやつだ。
ごほごほと酷く咳き込んで、それでも城之内は幸せそうに笑みを深めた。
その首には白い「首輪」が巻き付いている。
外の雨はいつの間にかまた上がっていた。本当に気紛れなその様は、寧ろ自分のお手軽な思考に似ているのでは、なんて。
少し、情けない。
「ま、いいけどな」
嬉しいものは嬉しいのだ。今が幸せなら、隣の不安には目を瞑ろう。
穏やかな青い瞳。優しく髪を梳き上げる指。それだけを思い浮かべていよう。
明日には、幸せのカタマリが帰ってくる。
+ END +

この話は一応 城のBD話 から続いています。
各務さんの素敵サイト、「 アイドルワイルド 」の1周年祝いに捧げさせて頂きました。
これからも愛らしい城と社長をたくさん拝見させてやって下さいませ!
■ 2003.07.01 ■
更なる続編 も読まれますか?